カテゴリー「さ行」の74件の記事

所信表明演説、鳩山新総理

鳩山所信表明演説を聞いて   今日26日、臨時国会が開会し、鳩山新総理の52分間に亘る所信表明演説があった。所信表明演説というのは限られた時間の中で国内から外交まで幅広い項目に亘って所信と決意を表明しなければならず、どうしても抽象的表現にならざるを得ない面があることは否定しないが、今日の鳩山新総理の演説は格調高いオバマ大統領演説を意識した感があって、些か美文調(実際はとても美文調とは言い難いが…)に流れた嫌いがある。具体的性に欠け、迫力ある決意表明とは言えないものであった。鳩山新総理個人の政治理念は存外真っ当でよく理解出来たが、最近の総理以下各大臣の「ブレ振り」を見ていると、彼らを束ねる最高責任者である内閣総理大臣の所信であるからにはもう少し個別問題まで踏み込んで具体的な方針表明があっても良かったのではないだろうか。その方が聞いている国民も理解し易かったと思うが、民主党政治が本当に鳩山総理の表明した政治理念に向かうのだろうか?という懸念が過ぎった。具体性に欠け、期待外れの感を抱いた国民が多かったのではないだろうか。所信演説に「大掃除」という言葉が登場するが、大掃除というのは「大掃除の為に動かした家具類は掃除後は元に戻す」もので、レイアウト変更とは異なる。大掃除をして廃棄物を捨てる必要性は良く分かるが、その後「元に戻すのか」「配置換えするのか」、どうするのかが明言されておらず霞んでいる。また、「友愛政治の原点は先人の言う『政治は弱者の為』にある」と宣言しており、自民党の「弱者切り捨て」あるいは「弱者置いてけぼり」の政治から転換したことは評価出来る。自民党は高級車両のために道路を舗装したが、民主党連立政権は「行政の速度は最も遅い人に合わせよ」と言うが如く乳母車のために道路を舗装する、という訳である。後は実践を確認するだけである。しかし、所信演説の中の「…これまで日本の社会を支えて来た地域の「絆」が、今やずたずたに切り裂かれつつあるのです。…」という件(くだり)を聞いて、「子供手当」創設のために扶養手当や配偶者手当を廃止するという、まるで「家族の絆」を断ち切るような政策を平気で表明する点に一抹の疑念も湧く。白けた気分に襲われた。谷垣自民党総裁は民主党新人議員団を前に演説する姿を評して「ヒトラーユーゲント(Hitler jugend)」を前に演じるヒトラーの如しと評していたが、段々「鳩山教」の教祖のような風格が出て来た感があり、やや異様に映る。

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国民が選んだ政権「洗濯」

民主308、自民119で政権交代   8/30の総選挙は大方の予想通り、民主308:自民119という民主の大勝利で決した。民主が唱えた「政権交代」というアグレッシブ・イメージのスローガンが自公の「政策選択」というマイナー・イメージのスローガンに勝った。確かに自公の敗因には、小泉政権以来の「改革」政策が社会の歪みを大きくしたことに対する自公政治への不信と不満が存在しているが、それを更に増幅させたものは、日教組に対する偏向発言、数々のデタラメ事務所費、原子爆弾投下を容認するような無神経発言、「産む機械」発言、破廉恥極まるヘベレケ朦朧会見、只同様の郵政施設払い下げ事件、…等々、自民大物議員の不祥事・不始末・失言・暴言の数々である。55年の長期安泰に胡坐をかいて狎れ切った真剣味・緊張感を失った問題議員の多さにもある。代議士個人の資質と自民党の体質を問われた点も否定できない。落選議員にとっては、正に真夏の夜の悪夢だっただろうが、身から出た錆で諦めるより仕方ない。実績のある大物政治家が駆け出しのヒヨッコにポロポロ、ポロポロ敗れたところは「郵政民営化に賛成か反対か」をスローガンに掲げ、「抵抗勢力」という擬似悪役を作り上げた前回の総選挙に極めて似ている。確かに55年の自民政権によってヘドロのような汚れが溜まっていることは間違いなく、自民党に自浄化作用は期待できないと見て、国民は「政権の洗濯」を選択し、自民党に「お灸を据えろ」という行動になったのだろう。それが自民党支持者の30%が自民党以外の政党に投票したという投票行動に表われていると言える。そうでなければ、20代30代の無名の若者が民主党公認というだけで当選する筈がない。民主党への追い風に、更に「洗濯」の風が吹いた。汚れた政界と薄汚い政治屋を淘汰し、清新溌溂な政治家と入れ替えることが出来るのは総選挙の一票しかない。投票率が75%くらいまで達していれば「一票一揆選挙」と名付けたいが、70%弱では一揆と言うには少し盛り上がりに欠ける。やはり「洗濯」選挙だろう。それでも、小選挙区で落選した問題政治屋たちが「比例重複」立候補に助けられゾンビの如く復活しているが、多くの国民が代替わりを期待していることを肝に銘じて自民党の再建・再構築を期待する。

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いよいよ、待ち草臥れた総選挙。民主、320?

「政権選択」という総選挙

    [2009.8.27追記] 泣いても笑っても総選挙はいよいよ三日後には終わる。それにしても「民主、320か?比例区は候補者不足か?」というマスコミの過激な予想に驚いているが、前回の大勢の小泉チルドレンが誕生した小泉劇場選挙が既に証明しているように、小選挙区制では十分に起こり得ることで「さもありなん」と納得せざるを得ない。多くの国民が小泉・竹中政権の「行き過ぎた」新自由主義・市場原理主義に修正を求めていることから見ても、政権交代が世の流れとなっていることは否定できない。一度激流と化した荒々しい流れは棹を少々差したくらいで治まるものではない。時を待つしかないが、後三日で静まることはないだろう。問題は国民の意を享けた大勢のアマチュア政治家、所謂鳩山チルドレン、否小沢チルドレンが誕生することである。私のような「平和憲法を護るべし」という者でも政権交代は否定しないが、民主党には過半程々の勝利しか期待していないのだが…。何故なら、今回の選挙が憲法理念の影が薄いことを懸念しているからである。急遽、鳩山代表は「大勝しても独裁には走らない」と発言しているが、メンバーを見ても偏向しそうな顔触ればかりで大きな懸念材料を内包している政党であることは間違いない。鳩山氏が匂わした独裁の対象は消費税率のアップのことだろうと思うが、「護憲」については明言していない。政治家の舌の多さには幾度となく騙されて来たことを思えば「本当だな。二言は無いな」と素直に信じることは到底出来ない。民主党に大勝させることは日本を危うい方向へ導くことにもなりかねないが、流れはそれに向かっている。そうなると平和維持を思う国民としては、せめて比例区は「護憲・平和維持政党」に投票することでしか、日本の平和を護ることは出来ないのではないか。

   [2009.8.20記] 18日、いよいよ衆議院議員選挙が公示れた。30日が投票日である。待ちに待ったと言うか、待ち草臥れたと言うか、安倍・福田・麻生と延々待たされた挙句の果ての総選挙である。麻生さんには酷な言い方になるが、「解散決断力」皆無の安倍・福田総理からの禅譲条件は「解散決断力」であった筈で、それを「承知之介」で総理を引き受けたにも拘らず、麻生さんまでもが宰相の椅子にしがみついてしまい、自らの支持率を下げ解散の時期を逃してしまった。総理の椅子とは、かほどに座り心地が良いようだが、有権者の約90%が投票に行く予定とのTV報道を見ると、これが国民のストレスを爆発させる切っ掛けにもなっているように思う。古くは太平洋戦争、近くは郵政選挙を見ても分かるように、日本人は巧妙に煽られると実に乗せられやすい「熱し易く冷め易い」性質を持っている。それだけに又々、郵政選挙の小泉劇場の二の舞が起きるのではないかと懸念している。何事も、過ぎたるは及ばざるに如かず。今、国民に求められているのは「政権選択」の前に、「これからのあるべき日本と日本人の生活」を選択する冷徹な目である。マニフェスト選挙で返って見え難くなっているが、今、日本が目指すべきは、「戦争放棄の再確認」「核兵器の廃絶」「一億総中流社会の復活」である。自公が声高に叫んでいる「景気・産業」政策は貿易立国の日本では当たり前のことで全ての党に義務付けられるものであり、改めて言う程のことでもない。夏の夜はお祭りの季節である。歌に煽られ踊りに惚けても乗せられても、日本の行く末だけは見失わない選挙にしたいものである。

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裁判員裁判、終わる

裁判員裁判、終わって見えた問題点   20090806(木)1922分、歴史上最初の裁判員裁判が終了した。裁判員裁判そのものについては運営方法等に最高裁・検察庁・日本弁護士会による周到な打ち合わせの上に行なわれたことが窺われ、裁判員の事後感想などから判断しても、成功裡に終わったと言えそうである。ただ、この裁判で新たな運営上の問題点がいくつか見えて来た。

     ⑴裁判員選抜・選任の方法

     今回の選抜方法は「先ず100名が選抜され、50人弱が裁判所に呼び出されている。書類質問によって「被告との利害関係の有無」がチェックされ、その後、裁判官による「面接」を経て候補者が確定され、抽選によって6人の裁判員と3人の補助裁判員が選任されているが、裁判員適否の面接判定人が当該裁判の担当裁判官である点は検討の余地があると言えよう。また、50名弱の呼び出しの内、「利害関係人」に該当したのは何名か。裁判官面接で「不適」と判定された人はいたのかいないのか、もしいた場合、その人数は何人で、その「不適理由」は何だったのか。これらの情報は公開する必要があるのではないか。

     ⑵裁判員に学習効果が期待されないこと

         裁判員裁判は年間2000件以上見込まれているそうだが、その都度、今回のような裁判が開かれることになる。多くの裁判員が事後の会見で「個人的には非常に勉強になった」というような感想を述べていたように、個人的には貴重で有意義な経験であり学習であったことは理解できる。しかし、裁判員候補者が一巡するには数百年かかり、この学習効果が次回の裁判に繋がることが無いことが大きな問題である。従って、裁判員と被告人にとっては常に「初めての裁判」が行なわれることになる。裁判員にとって「初めての裁判」ということは量刑結果に一貫性・均等性が損なわれる恐れが大きいことを意味する。言い換えれば、量刑に一貫性・均等性が生まれるということは「裁判官の指導」が行なわれていることを示し、「市民参加裁判」の意味が無くなることを意味する。

     ⑶量刑判定

         16年の求刑に対して15年の判決というのは、これまでの司法界の常識である「求刑の8(12,3)」に比べると著しく厳しいものになった。当初から予想されていた通りの結果となったが、これで「市民参加裁判」である以上良しとしなければならない。しかし、裁判の現実としては被告としては判決を不服とし、従来の司法常識の中に在る上級審へ当然の事として控訴することになると思われる。裁判員裁判の判決を権威あるものに出来ればよいが、法的には「判決に不満」という理由での控訴を阻止することは出来ないだろう。となれば上級審は一旦控訴を受けて審議して「控訴棄却」という方法を採ることが考えられる。「市民参加」裁判を「葵紋の印籠」を振りかざして口を封じる水戸黄門の世界が現れることになりかねない。即ち、憲法が保証している「裁判を受ける権利」の侵害が起こる恐れがある。

     ⑷費用対効果

         年間2000件以上の裁判員裁判が予定されているとなると、その経費は莫大なものとなる。裁判員候補者選定から裁判員裁判までに「候補者への連絡」「交通費」「日当」「裁判電子資料作成費用」等少なからぬコストが新たに発生する訳である。公務に対して無駄な経費の発生が云々されている今、費用対効果的に見ると、この裁判員制度は果たしてそれ程の制度だろうかという疑問が湧く。

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ノボセ上がった茶番師「そのまんま」

そのまんま東「そのまんま」の猿芝居   混迷を極める永田町に芸人東国原知事が宮崎から参入を企て一時はどうなることかと懸念したが、どうやら茶番で片が付いたようである。自民党にも見識が残っていたようで、ひとまずは安心である。東国原氏は、自らの身の不始末から干されて芸人稼業では食えず、已む無く県政へ転進した人だが、昨年度の所得を見ると「県知事を売り物」にメディアに多数出演し多額のギャラを得ていたようである。県知事職を芸にしたと見れば、大成功と言える。しかし、改めて東国原氏が宮崎県民のために「何」をしたか、ということになるとハッキリしない。マンゴーや地鶏の宣伝などは県知事でなければならないという理由はなく、極言すれば有名芸人なら誰にでも務まる。今回の「総裁にするなら…云々」という一連の騒動にしても、政治主張が「地方分権」というだけで意味不明瞭で、政治家になりきっていない「アバウト」芸人の姿が諸に出ている。異業種で人気の出た芸人「そのまんま東」の地を露わにしたのが今回の茶番劇である。お笑い芸人やバラエティー芸人には、観客の微妙な感情や顔色の変化を敏感に察知し、一瞬にして言動で挽回出来る能力が必須である。その点、目が笑わない東国原氏と目が笑う橋下氏に若干の違いはあるが、二人とも実に巧妙でよく似ている。最近の政治には「小泉劇場」以来いろいろな劇場が登場する。中には茶番劇もあり、当然、茶番師が登場する。東国原氏を見ていると茶番師を彷彿とさせるが、芸人のワラジを履いた政治屋ソノマンマではないか。このような東国原氏の有様を九州弁で「ノボセ上がる」と言うが、最近の言動を見ていると益々増長しているようで、「ノボセ上がるのもいい加減にしろ!」と言いたい。(尚、九州弁で「ノボセる」「ノボセ上がる」というのは東京弁の「舞い上がる」と「頭に血が上る」を足したような意味でチョッと馬鹿にして突き放した状態の時に用いる。)

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新インフルエンザ感染状況の発表の仕方

新インフルエンザ感染者数の発表   ここ数日の感染者の増加度合を見ていると、思ったよりも広がっていないようなので良かった。インフルエンザは高温多湿に弱いようなので、いよいよ入梅と夏の季節を迎えてそろそろ下火になるだろう。この一ヶ月というもの、メディアは、毎日毎日嫌と言うほど、感染状況と感染者数を発表して来た。これはこれで、感染者数の累計発表も大事だが、国民が一番知りたいのは「現在、自分の生活圏に保菌者(治療中の患者)は何人いるのか」という情報である。そのためには現在時点での「治療中の数」の発表も必要である。これが判れば、「病原菌はいるのか」「感染は広まっているのか」「下火になりつつあるのか」という判断も出来、個人も企業も自治体もより的確な対策が採れる筈である。冬になれば再び流行するだろうから、感染発表は「感染者数」だけでなく「治療中の数」も発表して欲しいものである。

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裁判員制度がスタート

裁判員制度の問題点    殺人・強盗・放火・飲酒運転等の悪質凶悪犯罪について選挙管理委員会によって「くじ引き」で選ばれた一般国民を裁判員とする裁判員制度が今日(5/21)、いよいよスタートした。私自身は、別項にも書いたように、この制度は憲法に違反しているという考えだが、中には裁判官や検察の考え方が民意から乖離しているので裁判員として民間人を裁判に参加させることは裁判の民主化、即ち「民主裁判」である、として評価している人もいるようである。しかし、本当にそうであろうか?そうであるなら、地裁だけでなく高裁や最高裁にも司法資格を有しない一般人を裁判員として参加させなければならないのではないか。裁判員が参加する刑事事件の内容が明らかになったが、凶悪犯罪ばかりである。犯罪の凶悪さから見て、とても一審だけで結審するようには思えない。また、被告の方からこの裁判を見れば、司法資格を有しない「素人裁判員」が関与した判決を「はい、そうですか」と素直に受け入れるとも思えない。従って、殆どの一審裁判は控訴されることになる。とすれば、一般国民は、所詮は一審の裁決に参加するだけで、二審からは従前通りの裁判が行なわれる訳で、今までと何ら変わりはないということになる。一体、裁判員制度というのは何を企図して作られたのだろうか?単なる被害者感情のガス抜きのためか?と思われても仕方あるまい。しかも、裁判員には「国民の義務」という責務を課し、裁判員を拒否すれば「懲役刑や罰金刑」が課されるということである。この根拠となるものは通称「裁判員法(裁判員の参加する刑事裁判に関する法律)」だが、この法律そのものが憲法に違反している疑いが濃厚である。憲法の何処に「裁判に参加する義務」が謳(うた)われているのだろうか?「裁判員」という意味不明の奇妙な名称は「職」を意味するのか、単に「人」を意味するだけなのか、判然としない。「有罪・無罪の判定」をし、「量刑を決める」役目や職務に課された「守秘義務」、更に日当が支給されることから考えれば、司法資格を有しない特別な「日雇い裁判官」と見ることもできる。となれば、「裁判員を拒否できない」定めは、憲法が保障している「職業選択の自由」に明らかに違反していることになる。問題の多い「裁判員制度」は廃止するか、根本的な見直しが必要である。

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SMAP草彅クンの酩酊全裸騒動とメディア。そして禊ぎ

草彅クンの酩酊全裸騒動

   [2009.5.14追記] 報道によれば所属事務所は5/28に草彅クンの復帰会見をし6/1復帰すると言う。本人も事務所も経済的には大きな制裁を受けてはいるが、たった一ヶ月での復帰というのは早過ぎないか?酔っ払いの裸騒動とは言え、苟(いやしく)も逮捕までされた刑事事件であることからすれば、「人の噂も75日」ではないが、少なくとも人々の記憶から消えるくらいの期間は謹慎すべきではないか。この事件は、本人の人間としての自覚と事務所の管理指導についての問題であり、共に肉体的痛みを知覚するだけの期間は必要であろう。そうすれば人々も同情し許して呉れるだろう。一ヶ月というのは肉体的にはこの上ない充電休憩みたいなもので、到底禊ぎとは言えないのでは?

   [2009.4.27記] 聖人君子のような印象を抱いていた草彅クンが酒乱気味性癖の大酒呑みであったことに驚いた。34歳という年齢にしては大人気ない振る舞いだという印象は拭えないが、その日が全く予定の入ってないフリーの休日であったのも気の緩みの因だろうと同情する。それにしても、都心の公園で深夜、全裸で喚(わめ)き散らすという破廉恥行為は頂けなかった。それにしても、「草彅容疑者逮捕」というテロップが流れてからのメディアの異常なくらいの反応報道がその後の混乱と困惑を増幅してしまった嫌いがある。赤坂警察署としては草彅クンの様子から、深夜全裸で死亡した尾崎豊の事件が脳裏を過(よ)ぎり「すわっ、又か!」という思いが走ったのではないだろうか。一般的に、ヘロヘロの酩酊状態であれば「トラ箱」行きを想像し、あってもせいぜい「騒動」報道ぐらいの筈だが、「容疑者、逮捕」となれば誰でもストレートに「事件」をイメージし、その原因が何であるかを想像する。それが著名な芸能人であれば、今は麻薬所持・吸引かとなるのは当然である。売れっ子タレント、売れっ子事務所であることを考えれば、ひょっとすれば脅迫・強迫・妨害を受けていたことだって想像に難くない。であれば当然、麻薬類や脅迫状類が部屋に残されていないかを捜査する必要がある。今回の警察の行動を「行き過ぎだ」と非難するコメントがあるようだが、その原因は事件を思わせる草彅クンの異様な言動と振る舞いにあったと言え、即座に警察が家宅捜索に入ったことは適切な行動であったと評すべきであろう。結果的には何も出ず、草彅クンにとってもジャニーズ事務所にとっても却って良かったのではないだろうか。むしろ反省すべきは、ここのところ過激過ぎるメディアの「エンタメ報道」、「予断」の強い「煽るような」報道(放送?)姿勢ではないか。しかしこれからは、34歳という年齢は十分過ぎる大人であることを自覚して行動して欲しいものである。

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最高裁の「物証なき」犯罪に対する判決と裁判員制度

最高裁の「物証なき」犯罪に対する判決   今日4/21、最高裁が和歌山カレー毒物殺人事件の被告林真須美に対し上告を棄却し、被告の死刑が確定した。先般の14日には電車内での痴漢行為を働いたとして一審、二審で有罪判決を受けた63歳の被告(防衛医科大教授名倉氏)に対し、最高裁小法廷は「満員電車内の痴漢事件は、被害者の供述が唯一の証拠である場合が多く、被告が有効な防御をすることが難しいため、特に慎重な判断が求められる」と述べ、被告が犯行を行ったと断定するには「合理的な疑いが残る」と「疑わしきは罰せず(推定無罪)」の法理に従って無罪(3:2)を言い渡した。その結果、物的証拠が無く「状況証拠」のみである和歌山カレー毒物殺人事件について逆転無罪判決もあり得ると妙な期待感を抱かせたが、最高裁小法廷は「状況証拠を総合することで、合理的な疑いがない程度に証明されている」と、「合理的な疑いが存在しない」として推定無罪を排除し、全員一致(5:0)で上告を棄却した。最高裁のこれら二つの判断は適正と評価している。ただ、来月の裁判員制度実施を目前に控えて、先の痴漢事件の最高裁逆転判決は、現行犯逮捕や確固たる物的証拠による逮捕でない限り、状況証拠による逮捕の危うさを示唆したが、和歌山カレー毒物事件では「状況証拠」でも十分な証拠能力があることを知らしめる結果となり、「疑わしきは罰せず」という推定無罪法理判断の難しさを示すこととなった。早急に素人にでも解る「疑わしき」という言葉の明確な定義付けが必要であろう。また、「合理的」という判断基準には、「犯意」や「動機」は重要な要素である筈だが、最近の「動機無き」犯罪、即ち「衝動的」犯罪や「病理的」犯罪の増加も罪刑判断を難しくしている。このように犯罪の複雑性が増している中で、最高裁の言う「状況証拠を総合することで、合理的な疑いがない程度に証明されている」という緻密な法判断が素人裁判員に出来るだろうか?懸念している。それにしても、裁判員制度は裁判制度そのものを無秩序な混乱に陥らせるだけのような気がする。一体どんな利点があるのだろうか? 

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政治献金と政治資金と政治団体と二世議員誕生の背景

政治献金と政治資金と政治団体   衆院選挙が眼近か(敢えて「間近か」を避け)に迫り、例によって自・民の間で政治献金絡みの暴露合戦が激しくなって来た観がある。選挙の度に少しづつ浄化しているのだろうとは思うが、こんなことでは「百年、河清を待つ」ようなものだ。大体、政治資金規正法という名前が良くない。何が「規正」だ!こんな意味不明の言葉を冠していること自体がそもそも国民を馬鹿にしている。問題が発覚した議員たちは「法律に従って処理している。法律には違反していない」と口を揃えて言うが、抜け穴だらけの大ザル法に違反することの方が難しいだろう。こんな法律でも無いよりはマシだろう。しかし、献金する側の国民から言わせれば、是々非々が分かり易い政治資金「規制」法でなければ、到底献金する気にはならない。そもそも政党交付金(いつの間にか、政党助成法に基づいて交付される政治資金となって「政党」だけしか貰えないようになった)なるものは、企業献金を禁止する代わりとして制度化されたものである、ならば、不良議員のいる党に助成する理由は無く、政治資金規正法等に違反した場合には政党も連帯責任として不正額の10倍くらいを政党交付金から没収するような罰則を設けるべきである。企業献金について原理原則から言えば、企業は事業活動の大綱を「定款」という形で表明しており、その定款に謳っている範囲内で事業活動を行なって利益を得ている。当然、企業には様々な政党の支持者や無党派従業員が働いている訳で、彼らの労働の成果が企業献金の原資となっている。これは法的には、定款に政治活動を謳っている企業などあり得ないので、経営者と言えども定款に定めた事業活動に関する支出しか認められず、自分勝手な使途が許されるものではない、と考えるべきである。即ち、企業献金に正当性は存在せず、個人献金に限定されなければならない、ということである。言い換えれば、株主から政治献金分の返還を目的に株主代表訴訟が起こされれば返還しなければならないという理屈になる。更に、政治資金という非課税資産は政治家が死亡したり引退したとき、その所有権は誰に属するのか、あるいは誰に承継されるのかという問題が、献金する側の政治団体と献金を受ける側の政治(資金)団体の双方に発生する。政治資金規正法は政治団体の解散について「報告」義務を定めているだけで残資産の処分方法や承継等について明確にしていない。一般人であれば、多額の相続税を支払わなければならないが、政治家は自分の息子や娘に世襲させることよって政治団体の資産(所謂「繰越金」)の相続税を免れることが出来る、という理屈になり、政治資金が非課税であるだけに大きな問題である。最近の二世議員の質の悪さを見ると、こんな脱税まがいの手法がまかり通ることが、政治家ならぬ政治屋稼業の「二世議員」を大勢誕生させている土壌でははないのか、と勘繰りたくなる。

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裁判員制度は憲法違反

裁判員制度は「徴兵制」素地作りではないのか?   来年5月に始まる裁判員制度の裁判員候補者への通知が始まった。裁判員に指名されると「正当な理由」がない限り拒否出来ないらしい。もし拒否すれば、罰金が課されるらしい。これではまるで、徴兵を拒めば留置場に拉致された戦前の徴兵制と同じではないか。この裁判員制度が、憲法9条改正に積極的だった小泉政権時代に作られたことを考えると、どうしても安倍政権時に「愛国心」を国民に義務付けた教育基本法の改正と同一線上に置いて穿った見方をせざるを得ない。国民に、国家への「奉仕としての公民権活動」を義務付ける心理面における素地作り、言い換えれば先ず裁判員に選抜されることによって無条件に国家権力の発動行為に従事することが公民権奉仕であるかのように錯覚させ、国民がそれに狎れた頃を見計らって憲法9条を改正すれば徴兵制がスムーズに受け入れられるだろうというシナリオに見え、意図的に「お上の命令」に従順な国民になるよう「洗脳」しようとしている行為に思える。現憲法に照らしても「裁判員」なる言葉はどこにも存在せず、裁判資格のないものが裁判を担い、被告がその決定に従わなければならないという法的根拠は存在しない。小泉政権はよくぞ、こんな無茶苦茶な妙な制度を作ったものである。そもそも、この「裁判員」というのは現憲法下において身分的にどのように位置付けされているのだろうか?裁判員としての職務を敢えて「奉仕としての公民権活動」という表現をしたが、「裁判官は職務で、裁判員は職務ではない」という理屈は成り立たないので、「一日あるいは数日の職務」という短い公務ではあるが「職業」という概念に入ると解する。となれば、たとえ裁判員に選抜されても、「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」という憲法22によって、自由主義国家であるから当然だが、受諾するか否かは本人の意思に従うことになる。にも拘らず更に、「拒絶すれば、罰金を課す」というのは行き過ぎで、何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」という憲法31条に明らかに違反している。また、裁判や裁判官については憲法第6章「司法」62条~82条に定められているが、「裁判員」についての表現は存在しない。判決は裁判官の専決事項であるにも拘らず、裁判員の多数決で判決が決まるというのは一般の国民に「他の国民を裁く」権利を与えていることになる。この根拠は憲法上どこにあるのか?憲法77条に「最高裁判所は、訴訟に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項について、規則を定める権限を有する」とあるように、最高裁判所には裁判制度を「根本から変えるような権限」までは与えられていないと解する。そういう意味で、時の立法府(内閣)最高裁判所を巻き込んで立法化したこの制度は憲法違反の疑いが濃い。もし被告が、「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」という憲法32条を根拠に、「被告は現憲法に基づいた裁判を受ける権利が保証されている」と主張して、裁判員制度裁判」を憲法違反として拒否した場合、どうなるのか?裁判員制度裁判の前に新たな裁判が始まるのではないか?国家権力の発動業務に関わる仕事というのは、元来、国家公務員の仕事(公務)の範疇にある。その中で「人を裁く」というのは公務の最たるもので、この原則は将来とも不変であろう。従って、裁判官は当然公務員ということになるが、その理屈から言えば、裁判官の資格を有していない裁判員判事というのは「日雇い特別公務員」ということになるのだろうか?もし、刑に服した被告が出所し、街中で「その時」の裁判員とバッタリ出くわし怪我をさせた場合、裁判官は国家公務員法によって補償されるが、「その時」の裁判員は国家賠償法によって賠償されるのだろうか?そう単純には行かないような気がする。実施まで半年となったが、憲法上も問題が多い。もう一度、じっくり考えてみた方がよいのではないか。

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G20金融サミットと景気回復

G20金融サミット   G20とは「The Group of Twenty」の略。G8(The Group of Eightアメリカ・日本・イギリス・フランス・イタリア・ドイツ・カナダ・ロシア)12新興主要国(中国・インド・韓国・メキシコ・オーストラリア・スペイン・インドネシア・ポーランド・南アフリカ・イラン・ブラジル・ナイジェリア)を加えた20ヶ国の首脳と財務大臣(Finance Ministers)、中央銀行総裁(Central Bank Governors)で構成。この金融恐慌によって破綻寸前の国家さえ現われているという影響の大きさを考えると、地球上193の国の中の一割20ヶ国というのではなく、G30くらいでも良いのかも知れない。今回の世界金融恐慌は、米国金融界がサブプライム・ローンを証券化して有利な金融商品として世界の隅々まで販売したことが発端となっているが、わが国金融界は不動産バブルの崩壊によって学習していたお陰で深入りしなかったことが幸いしている。元はと言えば、ブッシュ政権の8年が新自由主義・市場原理主義の下に、レバレッジ(leverage)10倍~100倍という無茶苦茶な証券化商品(小泉・竹中コンビが従順に導入し格差を広げた)を野放しにして来たことが行過ぎたファンド商品を生んだ。経済に知識のある人であれば、実業に礎を置き実業を担保としている金融が信用創造(Credit Creation)機能を有していることを知らない人はいない。レバレッジが100倍という証券化商品というのは、100万の現金を元手に1億円の商いが出来ることを意味する。2 %の利益率でも200万の利が得られ、投下資金100万が300万になる訳で、マネー・ゲームそのものである。到底、実業に根ざした健全商品とは言い難い。今回の世界金融恐慌は、信用創造という名前の下に巨大化を続けた虚業バブル、所謂ファンド・バブルが弾けたことが引き金となったようなもので、巨大過ぎたレバレッジが金融だけに留まらず実業にまで危機を及ぼしていることが大問題である。恐慌規模が大きいだけに景気回復までには思い切った支援と時間が必要だろう。民間の「格付け会社」が生まれたこと自体が、金融の不透明性を証明しているようなもので、汚れ濁った池の底が見えるようになるまでにはかなりな年月を要するだろう。今回の金融バブル崩壊は「金融の神様」と言われたグリーンスパン氏など多くの金融人たちまでが無限の信用創造力を誤信したところにもある。そういう意味で、20081115-16、ワシントンで第1G20緊急首脳会議(金融サミット)が開かれた際、EU連合が証券化商品市場に対し一定の制約・制限を設けるべく主張したことは正しい。宣言において、「金融危機に歯止めをかけるため、金融監督に関する国際的な連携を強化する」とともに「内需刺激のため財政出動で各国が協調する」方針と、「金融政策も含めた政策総動員体制で危機克服に臨む」姿勢を強調したことを期待したい。

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「政治屋」に投票するな!

政治家と政治屋

  [2008.10.8追記] 予期せぬ内外の出来事に煽られ、政局は日々目まぐるしく変転している。衆院解散の時季をポーカーフェースの麻生総理の表情から読むのは中々難しいが、公明党を見ていると「いよいよ」という感じがする。今度の選挙では有権者の皆さんには、間違っても「政治屋」だけには投票しないよう、是非共「政治家」に投票して欲しいと願っている。「政治屋」という概念が外国にもあるのだろうか?と思って新英和・和英中辞典(研究社刊)で調べてみると、チャンとあった。「聡明で識見のあるりっぱな政治家」を「STATESMAN」といい、「自己の利益または党派中心に駆け引きをする軽蔑すべき政治屋」を「POLITICIAN」と言う、とある。「政治屋」の存在にはどの国もウンザリしていたのだろう。しかし、戦後の焼け野原の中から驚嘆すべき復興を遂げ繁栄に導く一端を担ったのは、残念ながら利益誘導の政治屋議員であったことは否定できない。利益誘導型の政治家が「清濁併せ呑む」人物としてむしろ尊敬されて来たようなところがあるが、今はもう時代が違う。世界からは政経共に世界のトップレベルとして見られる国になったし、膨大な借金の因となった利益誘導体質の政治から脱却する決断も要る。今、わが国の政治が最も必要としている人物は聡明で正統なる政治家、即ちSTATESMANであって、私利党利に走る愚昧にして利益誘導型の政治屋、即ち「POLITICIAN」ではない。世襲議員は九割方「政治屋」と見て間違いない。麻生氏の言う、「官僚を使いこなす」には清廉聡明にして見識が高い人格者でなければならない。

政治屋〖せいじや〗

  [2007.6.19記] 参議院議員選挙が近づいた。昔は人物本意で選んでいたが、近年の選挙は、拘束名簿式比例代表制から非拘束名簿式比例代表制に改正されたとは言え、「誰」を選ぶかよりも「政党」に重点が移っている。そのために名前さえ売れていれば、ロクでも無い人間でも、あるいは知能・見識的に明らかに不適格な人間でも、票数だけが欲しい政党は担いで呉れる。これを利用して、本業で食いっぱぐれて政治で一儲けを企む輩も紛れ込むことになる。こんな利己的「政治屋」連中に政治を任せていたら、日本も日本の政治も良くなる筈はない。そもそも「××屋」というのは、八百屋とか魚屋とか不動産屋とか保険屋というように「××」をもって儲けを得る商売を意味する。従って当選するや、権力を手に入れた政治屋は裏では密かにその権力を利用して私腹を肥やす行動に走る。そのような「政治屋」に政治家としての倫理観や正義感を求めること自体、幻を追うに等しい。一方、利己に走る政治屋に対し、純粋に「政治こそ使命」と考えている真面目な「政治家」も大勢いる。「○○家」というのは、画家とか作家とか教育家とか法律家というように「○○」に秀でた人」を意味する。昔から「金」に汚い政治家もいたことは否定しないし擁護するつもりも無いが、昔は名簿記載順で当否が決まる比例代表制もなかったし、国民は政治に理想や使命感を抱いて一家言を有する「政治家」を選んでいたように思う。そういう意味では今よりも不良議員が淘汰される確率は高く、自ずと政治に自浄作用が働いていたように思う。来る参議院議員選挙では間違っても「政治屋」に票を入れないようにしなければならない。日本の政治を浄化できるのは、結局のところ「国民の一票」でしかないことを銘記すべし。

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消費者庁の創設

消費者庁新設   ここ数年、マンション、車、エレベーター、食品、偽カシミア等々による詐欺罪や過失致死傷罪等々、衣食住の全ての分野に亘って様々な「偽」が国民生活の権利と安全を蹂躙している実態があからさまになって来ている。毒入り餃子事件では国民挙(こぞ)って中国製食品の不買行動に動き中国を侮辱する事態となったが、汚染米事件等々明らかになった日本企業の「偽」ぶりを見ると、他人のことをとやかくいう資格はない。日本人の倫理観も地に落ちたものである。このような実態を見て、福田前総理が迅速に「消費者庁」の創設を決断したことは評価に値する。ただ、発想はなかなか良いが、現実的には「消費者庁にどういう権限を持たせるか」が難しく、最も重要な課題となる。消費者庁は、被害者からの告発や内部告発等によって行動することになると思われるので、当然、容疑段階での捜索が行なわれ、裁判所の判決を得た強制執行権や強制捜査権等の警察権や検察権が必要となる。同時に、証拠保全、業務停止、等の法律行為を実行する権限が要求される。従来の縦割り官僚組織は前述の権限を有しているが、横断的連絡機能が不全であり、意思決定と実行スピードが遅いという欠点がある。その点、「消費者」という切り口から創られる消費者庁は組織横断的官僚機構となりスピードは速まるが、行政権限や行政任務に組織的重複が発生し行政的混乱が起きることが懸念される。そういう点で環境省が似ているが、国民個人の安心安全を対象とする点において消費者庁の位置付けは極めて難しい問題を抱えていると言える。それだけに、強力な国民の味方である消費者庁に育てるためには「消費者安全保護法(仮称)」というような裁判権、捜査権、逮捕権、業務停止権等の権限を有している強行法規程を準備するなど、これらの組織的問題点を如何に解決するかが重要課題となる。消費者庁という名称からは如何にも国民一人ひとりのための行政機構のように感じ期待してしまうが、これは取りも直さず、本来、国民のために存在している筈の省庁が、実は国家と国家を支える大企業のための省庁と化していることを示しているだけでなく、官僚の頭から「公僕」思想が雲散霧消し、官僚政治が国民から遊離していることを示しているようなものである。麻生総理も消費者庁の創設には前向きのようであるが、国民のための、「実」を伴った組織を造って欲しいものである。

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いよいよ総裁選!実は総選挙?

いよいよ総裁選、否、総選挙!   9/10、「苦闘」の始まりの日である。ポコポコ、ポコポコ湧いていた泡や小波が消えて澄んで来て、やっと器の中が見えて来た。総裁候補が出揃ったと言うより、小沢対抗馬が出揃ったと言うべきか。麻生氏と与謝野氏には総理の風格が辛うじて垣間見えるが、他の3人はまるで選対委員長か何かの選挙かと錯覚しそうである。それぞれの人が総裁となり総理となった時の日本の姿を想像したとき、麻生氏と与謝野氏以外には日本の姿をイメージすることが出来ない。安倍、福田と「投げ出し」総裁が二代続いた後なので、今度ばかりは「投げ出し」総理だけは勘弁願いたい、というのが国民の偽らざる気持ちだろう。そういう目で候補者を眺めると、麻生氏は、「放り出すくらいなら解散する」タイプに見え合格であるが、他の4人は「自分の行動を自分では決められず、結果的には投げ出しそうな」タイプに映る。そういう意味で、政権政党の総裁を選ぶにしては小粒の観は否めない。自民党にはこの程度の候補しかいないのか?トンデモナイ、出ていないだけである。しかしこれが、自民党の退潮を印象付け、益々、麻生氏のための「仕組まれた総裁選」という印象を強調する。麻生総裁が誕生して茶番劇前座の幕が降りると、本番の総選挙の幕が開く。総選挙は久し振りに国民の声を反映することになる。国民は、半世紀以上の長年に亘って自民政権に生活の安全と安心を委ねて来たが、年金問題、医師や薬剤等の医療問題、食品の安全問題、教育現場の荒廃、…等々、厚労省や農水省等の無策かつ杜撰な官僚行政が明るみに出る度に、一体、自民党政権は何をやって来たのか、という不信感を強く抱いている。にも拘らず、国民の自民党議員を見る目が日に日に冷たく厳しくなっているのを知ってか知らずか、多くの自民党議員の言動や振る舞いは概して横暴かつ専横的なままである。謙虚さを失った自民党に嫌気を催している国民の気持ちを理解していない。これまで、自民党以外には国民が納得して政治を委ねる政党が存在しなかったための諦めにも似た思いを…。参院選挙によって、国民がやっと民主党の存在価値を認め、「今回は民主党に政権を握らせよう」という気持ちになっている。これは、日々の弛まぬ調査によって自民党と官僚の恥部を赤裸々に暴いた地道な活動を国民が認めた結果だろう。民主党が国民に存在価値を認められるにつれ、国民は政権を任される政党を自民党の外にもう一つ必要であると認識し始めたのである。日本国民には江戸時代以来延々と「政はお上」という思想がDNAに刷り込まれて来ている。そのために「昨日のように今日も、そして明日も」という保守的考え方が強い。急激な変化に対しては明確な拒否反応を示し、改革よりも変化の方に共感を抱く。ところが最近の官僚機構と政権政治のボロあるいはホツレが顕われるにつれて、「昨日のように今日も、そして明日も」という風には行きそうもないゾ、という不安感を国民は抱きつつある。この犯人探しをしてみると、信頼して半世紀以上も任せた「お上」である自民党であることに国民が気が付いたのだ。こうして民主党に風が吹き始めた。民主党が支持されているのではなく、自民党の所業に呆れ果てた国民のささやかな抵抗の結果に過ぎないが、日本の政治を良くするためには、民主党を国民から信頼される政党に育て上げなければならない、と考えている人も増えている。

  麻生太郎 マンガオタクとしてアキバ(秋葉原)族に人気。「ワンマン」宰相吉田茂を祖父に持ち皇族にも連なる「華麗なる一族」麻生家の総帥であり、麻生派の領袖。本来なら、安倍総理の次の総理であった筈だが、情勢は「一夜にして一転」して福田総理が劇的に誕生、という貧乏くじを引かされた。やや失言癖あり。責任感は強そうで、「投げ出す」より「解散!」タイプだろう。小泉氏と総裁選を争って以来、安倍、福田に敗れ、4度目の挑戦。今回は天敵小泉元総理の影が見えないので圧勝だろう。しかし、「仏の顔も三度まで」という諺があるように、いつまでも「いつもニコニコ、麻生さん」では、総理大臣は務まりませんゾ。

  与謝野馨 与謝野鉄幹・晶子を祖父・祖母に持つ文化人。派閥に属さず。概ね良識派であるが、消費者金融のグレーゾーン金利について業者寄りの判断を示したことで、「あの与謝野が!?」と国民から不信感を買った。福田氏から麻生氏への禅譲がバレれば、弱り目に祟り目の自民党にとってはカウンターパンチになる。そのために、総裁選を如何にもそれらしく見せるために担ぎ出された、というのが本当のところだろう。間違って与謝野さんに大量票が入ったら、当のご本人が一番慌てるだろうな。如何にも賢い能吏という感じの人である。

  石原伸晃 毎日新聞記者を経て父石原慎太郎の「七光り」を武器に政界へ。「一点の私心無し」をキャッチフレーズに立候補したが、「一点の私心無し」が何を言わんとしているのか、説明不足。次、あるいは次の次に備えての立候補かと思うが、案外、石原派?旗揚げの布石かも知れない。それにしては、推薦人集めに時間が掛かり過ぎたが…。

  石破茂 軍事オタク。守屋防衛事務次官の犯罪の裏に久間元防衛大臣、額賀元防衛庁長官、石破元防衛大臣がチラチラと見え隠れし、胡散臭さが消えない。防衛大臣経験者を総理大臣にして良いのかという問題もあるが、いやしくも総理大臣を目指そうというのであれば、逮捕された秋山直紀が掌っていた「日米平和・文化交流協会(日米の軍事・軍需に絡む政官財トップが会員という利権団体?)」との関係を明らかにすることが先だろう。総裁選出馬の第一声を地元(鳥取選挙区)でしたのは総選挙活動を思わせ、マイナスだった。苦戦中の故か?

  小池百合子 「渡り鳥」「刺客」と言われている割りには、侠客らしく見えない。初の女性候補という「売り」は「Change自民党」を演出したい自民党にとっては格好の候補者と言えそうだが、残念ながら政治家としての確固たる見識が見えて来ない。郵政選挙では思わぬ神風が吹き兵庫から東京へ舞い降りて成功したが、総裁選出馬第一声を地元(東京10)でしたのは逆風吹き荒れる総選挙活動に見えた。石破氏同様、苦戦なのだろう。

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選挙運動?と化した観あり、総裁選

選挙運動?と化した観あり、総裁選   国民の中には、最近の駄目な総理大臣を見て、「実際の政治は官僚が実権を持っているので、総理なんて、誰でも出来る」と本気で思い込んでいる人がいるようだが、その程度の総理が選ばれ過ぎたために今の駄目な日本があることを知らねばならぬ。総裁選は本来は自民党村の村祭りであるが、あたかも総理を選ぶ選挙であるかの如く国民に錯覚印象付けようとする自民党の宣伝発想には旧態依然たるものがある。しかし、自民党総裁が総理になる確率が極めて高いことから見ても、党員以外の一般国民が大きな関心を抱くのは決して悪いことではない。総理には、力量、知性、理性、知識、人格、思想、決断力、実行力、判断力、誠実性、使命感、覚悟心、バランス感覚…等々の資質に更に清廉潔白さが求められる。ところが、今回の総裁選を見ていると、資質はおろか、推薦人数さえ集まるかどうかあやふやな「自称」総裁候補者が続々と現われている。中には「総裁になるつもりはないが、…(政策を明確にするために出る)」と発言している訳の分からない候補者もいる。「だったら、総裁選に出るな」と言いたいが、多分、衆院選挙のための売名行為だろうと思う。それにしても、そんな候補者の推薦人になる気も理解できないし、それをたしなめようともせず見て見ぬ振りの派閥の長も不謹慎である。また、それを無批判に報道するメディアの姿勢も情け無い。最良の適格者を選択するのが総裁選である筈だが、新総裁は麻生氏で決まりのデキ・レースの観が強く、小物がチョロチョロする光景はまるで衆院選挙前の選挙運動のようににしか映らない。これでは更に自民党の評判を落とすことになるだろう。派閥の長たる者は日本の未来を見据えて総理に相応しい適格・適任者を選別するぐらいの指導力は発揮すべきである。先の参院選挙で参院与党を民主党に奪われた中での今度の衆院選挙は、与野党逆転という事態が十分考えられる状況となっており、神風選挙であった郵政解散選挙のバブル票によって当選した自民党議員にとっては、選挙を間近に控えて正に背筋に氷水が滴るような思いであろう。参考までに、「総裁=総理」という意味で、総理総裁という言葉が使われるが、この言葉は自民党だけの固有名詞みたいなもので、冷静に考えれば奇怪(おかし)な言葉である。自民党が政権与党として長期に亘って政権を握っていたことから「総裁=総理」という認識が生まれただけで、実際は政権を獲った政党の代表が総理となる。因(ちな)みに、政党を代表する職名について記すと、自民党は総裁、公明党・民主党・国民新党は代表、共産党は委員長、社民党は党首、と言う。

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「種蒔き」総裁選び

「種蒔き」総裁選   福田総理は「種子(たね)は蒔いたと自負している」と胸を張って造ったばかりの内閣を放り出してしまったが、「種子を蒔く」ぐらいのことは誰にだって出来る。政治とは「種子を蒔き、育て、花を咲かせて実らす」ことである。「育て、花を咲かせて実らす」ことが出来なかったということは内閣総理大臣の責任を全う出来なかったことを意味する。この事実を真摯に受け止めれば、自ずと国民に対して頭を垂れて謝ることになる筈である。ところが、総理辞任会見の中に「国民に謝る」言葉が一言も無かったということは、就任当事に推薦8派閥のボス間の納得事項で、(麻生氏への)禅譲の時期を誤らないことが自民党内の申し合わせだったのだろうと見るのが妥当だろう。今回の総裁選もその程度の期待できないお祭りになりそうだが、ただ最悪なことは、福田首相が「政治とは種子を蒔くこと」という誤った考えを「自負している」という表現で若い議員の脳内に刷り込むという愚まで演じてしまったことである。今後、議員の質が低下するばかりでなく、自民党の総裁選には「種子を蒔く」レベルの、程度の低い候補者が現われることになりはしないかと懸念している。いよいよ総裁選の候補者も、大本命の麻生太郎氏、与謝野馨氏、石原伸晃氏、小池百合子氏の4人に絞られて来たようだが、所詮は麻生氏への禅譲密約を暴かれ叩かれないための壮大な茶番劇の始まりだろう。その証拠に、今回は派閥の長は麻生氏だけで、他は、泡沫とは言わないが、本来であれば推薦人数(20)を集めることさえ難しいくらいの人たちで、従来の総裁選候補者とはかなり趣を異にしている。しかし、想定外のことが起きるのが政治である。何が起こるか楽しみに見物しようと思っているが、如何なることがあっても未来永劫、防衛大臣経験者だけは総理大臣にはなって欲しくない。国民は安倍・福田に続いて三代目の「種蒔き総裁」は望んでいない筈だ。

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杉村太蔵議員の公設秘書、自殺未遂ニュースの?

杉村太蔵議員公設秘書の自殺未遂報道

  [2008.10.10追記] 9/11、意識は戻らず入院先の病院で死亡。杉村大蔵議員が会見を開いて何を喋るか待っていたが、どうもそんな気は無いように見える。若者に何があったか不明だが、自らの前途を自ら絶つ無念は如何だったか。合掌。

  [2008.9.2記] 828日深夜、杉村太蔵衆院議員の第二公設秘書(25)が川崎市中原区の自宅の自室で自殺をはかり意識不明の重体となっているという報道があったが、第一報の報道がなされただけで、その後、家族はもとより杉村議員サイドからも自民党サイドからも何一つ報道が無い。どうなっているのか?概して、政治家周辺の事件については警察も気を使うのか、あるいは党からの報道規制でもあるのか、兎角ウヤムヤにされるケースが多々あるが、9月1日の福田総理辞任発表によって掻き消されようとしている。この事件もそうなるのか?マスコミは国民の「知る権利」に応えてこそマスコミである。最近のマスコミは個人情報保護法に対して過度に反応しているのか、報道姿勢が弱いように思う。特にこの事件の主は国民の税金によって賄われている国会議員の公設秘書である。杉村議員や自民党が口を閉ざしているのであれば、その旨、報道することも大事なことである。マスコミは第一報に対して何らかの第二報をしなければならない。「起承転結」の「起」だけで終わっているのは気分が良くない。「承」「転」は無くても、せめて何らかの「結」は欲しい。

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格差解消のためのGDP戦略

GDPと格差の関係   第2次福田内閣が成立したが、残念ながら景気浮揚や格差解消のための布陣には見えない。日本国内の景気状況はGDP(Gross Domestic Product:国内総生産)と経済成長率(=GDPの成長率)で表わされる。昔はGNP(Gross National Product:国民総生産)で示されていたが、この数値には日本企業が海外で生産した数値も含んでおり、最近は国内(Domestic)の景気状況を見るにはGDPの方がよいということになっている(国民の富裕度を見るにはGNPの方が良い場合もある)2005年のデータでは、日本のGDPは概ね500兆円で世界第二位。その60%を個人、30%を企業が占めている。一人当たりGDPで見ると、2002年には世界第6位だったものが2007年には22位と落ち込み、格差拡大はここにも現われている。GDPは何とか世界第二位を維持しているが、GDPが大都市経済と地方経済の平均値、あるいは大企業と中小零細企業の平均値であることを考えると、地域間格差や企業規模間格差はそれぞれの成長格差と言い換えることが出来る。しかしこれだけでは片手落ちで、60%を占める個人GDPの存在を忘れてはならない。個人GDPの成長率が大きな要素なのである。GDPとは国家の付加価値の大きさであり、付加価値は資本の付加価値と労働の付加価値の和である。一億総中流時代は、国民は資本と労働の両方から得られた付加価値を享受し、その結果として世界一の貯蓄国家となり、日本も国民も豊かになった。しかし、バブル期からの外資優先、企業優先の経済政策は、資本家と労働者階級の分離を進め、一般国民から貯蓄(ささやかな個人資本)からの付加価値を奪って日本の第6次産業の低下をもたらした。今後の政治には、「国力=国民力」であることにも注力し、個人GDPの増大戦略を期待したい。

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懲りない相撲部屋の面々、間垣親方と豊桜

再び「しごき」事件発生、そして責任問題

  [2008.5.29追記] 弟子殴打事件で、今日、日本相撲協会から間垣親方と豊桜と陸奥親方の3人に処分が出された。直接手を下した間垣親方(理事)と豊桜には「3ヶ月間、報酬30%カット」、陸奥親方には「譴責」というもので、実行行為だけが問われて理事や理事会の管理・監督・指導責任は問われていない。またしても、「お金」で責任を取ったことにしようとしているようだが、常識的には間垣親方と陸奥親方は親方辞任、豊桜は出場停止処分だろう。当然、北の湖理事長にも責任は及ぶ。しかし、北の湖理事長や日本相撲協会の理事会は、責任については「金銭で償わせればそれでよい」という程度の認識しか持っていないようで、「協会と親方が責任を売買している」図式になっていることにも、「責任とは、ファンと相撲協会が共有している価値観である」ことにも気付いていないようである。どう見ても相撲協会に自浄作用が働いているとは思えず、時太山事件が学習されているとは思えない。朝青龍の「サッカー」事件、時津部屋の「時太山殺害」事件、朝青龍と白鵬の先日の「ダメ押し・睨み合い」事件、それに今回の弟子殴打事件に対する北の湖理事長の言動を見ていると、昨日破産した船場吉兆の経営陣の姿に重なる。部下への責任転嫁、素知らぬ振り、隠蔽体質、ファンへの裏切り行為等々、実によく似ている。出処進退のいい加減な組織というものは、勝手な論理がまかり通るようになり、個々に勝手気儘(きまま)な行動を起こすようになって団結力や一体感が弱まる。そうなれば、「相撲道」といった綺麗事はどこかへ行ってしまう。船場吉兆の内情を知った常連ファンが去ったように、大相撲ファンが徐々に離れて行くのも致し方無いように思う。もし、責任の取り方や取らせ方というものが分かっていないのであれば、暫くの間、外部の人間を理事長か副理事長に据えて理事長や理事を教育しなければ、日本相撲協会の健全化も大相撲の発展もないのではないか。

  [2008.5.19記] 時津風部屋の「時太山しごき死亡事件」で逮捕者が出たばかりだというのに、またまた二つの事件が本場所中に発覚した。間垣親方(間垣部屋)の竹刀殴打事件と豊桜(陸奥部屋)のお玉殴打事件。弟子がいけないことをしたから竹刀で叩いた。これが私の指導方法だ」弟子がいけないことをしたら、けいこでしごくのは当たり前だ」(暴行は)他の部屋でもやっている」と発言し自分の行為を正当化していた間垣親方は翌日前言を撤回し謝罪した。そして、豊桜は「時津風部屋の事件のことを軽く思っていたところがあった」と。両者の、時太山死亡事件を対岸の火事でも見物していたかのような発言には唖然とする。逮捕者が出た時津部屋時太山死亡事件の後、再発防止検討委員会が設置され全相撲部屋を聴聞視察して廻ったばかりだというのに、「時太山しごき死亡事件」の教訓が全く生きていない証明でもある。4月に全53部屋廻りを終えて、再発防止検討委員会は「通常の部屋ではいじめのようなものはなかった。やはり時津風部屋での事件は異質だった」と結論付け発表していたが、やはり実態は「懲りない親方」「懲りない相撲部屋」「懲りない兄弟子」が存在していたことが露見した。案外、豊桜の発言が各部屋の実態を最も的確に表現しているのかも知れない。これらの事件について北の湖理事長は両親方に「二度とこのようなこがないように」と訓告しただけのようである。何故、その後に「身を慎んで沙汰を待つように」と付言しないのだろうか?先の時太山死亡事件の際に北の湖理事長が責任を取って辞任していたら、今度の事件は起こっていただろうか?辞任していれば、如何な封建的で時代遅れの親方衆ももっと真剣になって取り組んでいただろう。何度も述べて来たが、「責任を問おうとしない」理事長の姿勢に問題がある。責任を取らない組織というのは全体の退廃を進行させ、そして滅亡に導く。この原因は日本相撲協会の、「(責任は)取っても取らなくてもよい」とする風土にあると言える。北の湖理事長が本気で大相撲の体質を変換させようと思っているのであれば、自ら範を示して引責辞任するしかあるまい。無責任主義を放って置けば相撲界に再々度事件が起こるだろう。

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船場吉兆、今日、廃業

船場吉兆、廃業   5月28日、船場吉兆が民事再生法による再建を諦め廃業した。1月に民事再生法による再建決定がなされてから半年にも満たず廃業に追い込まれたが、5月初めの「使い廻し」発覚によって完全に「止め」を刺されたようである。高級料亭というのは、料理は勿論のこと「もてなし」の心遣い等々、顧客からの「絶対的信頼」の上にしか成り立たない生業(なりわい)である。それだけに高級料亭の存続には厳しい条件が存在する。にも拘らず、これまでに報道されたような数々のインチキが明らかになれば、高級料亭存立の絶対条件である「絶対的信頼」は当然喪われる。数限りなく露見した食品・お菓子業界及びその他の業界での偽装事件、特に不二家や雪印等の老舗の不祥事を「他山の石」とせず、「対岸の火事」見物していた姿勢が今日を招いたと言える。自ら真摯に襟を正し学習する姿勢を喪った老舗が存立出来るほど甘くはない。廃業は已む無しである。そもそも、再建方法として旧経営陣がそのまま残留できる「民事再生法」を選んだところに世間を見る目の甘さが見える。というより、世間を軽く見ている傲慢さが窺われた。企業が自らの価値観を大事にすることは決して悪いことではないが、忘れてならないのはその価値観が消費者に共感をもって共有されなければならない、ということである。企業や経営者が独り善がりの価値観を振り回すようになったら、遅かれ早かれ必ず酷しい制裁を受ける。「安心・安全」に関する偽装事件を起こした企業と経営者には、船場吉兆の廃業を「対岸の火事」と見物するのではなく「他山の石」と銘じて真摯に受け止めて学習し直して欲しい。しかし、最も可哀想なのは突然の廃業で職場を失った従業員たちである。世が世であれば、従業員たちは「吉兆の料理人」や「吉兆のもてなし」ディレクターとして持て囃された筈だが、一瞬にして「嘘で糊塗したもてなし」のプロデューサーとなってしまった。

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スタグフレーション:第3次オイルショック到来

スタグフレーションstagflation

  [2008.5.26追記] 昨年、50ドル~65ドルで推移していた原油価格が一挙に100ドルを突破し、そのまま棒上げで遂に130ドルも突破した。今の勢いで行けば150ドル~200ドルまで覚悟しなければならない状況である。既に物価は急騰を続けており、確実に経済はスタグフレーションに突入したと見るべきである。過去の二回は世界的にも国内も高金利時代でもあったし、それなりに賃金にも反映されて乗り越えて来られたが、今回は不透明である。世界的に低金利傾向であり、国内はそれにも増して超低金利政策の中にあり、舵取りはかなり難しいのではないだろうか。ここは敢えて国債を発行してでも乗り切らなければならない局面を迎えているように思う。さもないと、第2次ショックの後に大倒産が起こったように、日本経済は大倒産時代を迎えることにもなりかねない。

  [2008.1.23記] スタグフレーションという言葉を久し振りに聞いた。スタグフレーション(stagflation)とは、スタグネーション(stagnation:不景気・沈滞)とインフレーション(inflation:通貨量肥大による物価騰貴)の合成語で、19731974年の1次オイルショック1979年の2次オイルショックの後に一般化した。過去二回ともオイルショックの後に起こっており、今回も第3次オイルショックを契機としてスタグフレーションが懸念されている。スタグフレーションとは、各々の単語が示しているように、景気沈滞化の中での金余り物価高騰である。物が売れないにも拘らず価格だけが上がり続けるという経済の原則に反するような現象が起こる訳だが、景気沈滞や物価高騰の原因がオイル価格の暴騰にあることは言を俟たない。第1次オイルショックは1バレル当り2ドルであった原油価格が一挙に4倍強の10ドルに値上げされたことにより、第2次オイルショックは更に三倍強の36ドルに値上げされた。これによって、物価は狂乱し、世界の経済活動に急ブレーキが掛かりエンスト状態に陥った。工業原材料であり、一般消費・消耗品であり、最大のエネルギー源であるオイルの流通に齟齬(そご)を来たすことは、恐慌状態の混乱を惹起することを意味する。今回は既に100ドルを突破しそうな異常な事態になっている。第1次ショックの際には高金利政策(日本は年利9)によって投機に廻っていた余剰資金(オイルダラー)を預金に集める策が採られたが、今回は更にアメリカのサブプライムローンの破綻による金融不安が重なっているために高金利政策を採ることも出来ず一層複雑化していると言える。餌を求めて死肉に群がるコンドルのような禿鷹ファンドがのさばるのは、余剰資金の安住地がないことを示しているようなもので、そもそもの原因は株式市場を優遇するために実行された低金利政策に端を発している。世界経済が「株価至上主義」に陥ったことが、ファンドのような根(実業)無し草のような虚業金融経済を賞賛する風潮を蔓延(はびこ)らせてしまった。「健全な経済は健全な実業と健全な金利政策の上に育つ」ことを今一度銘記すべしである。

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「偽」が満ち満ちた「船場吉兆」

「偽」の食、船場吉兆

  [2008.5.28追記] 528日、再建を断念し廃業。⇒関連記事

  [2008.5.10記] 52日、民事再生法を申請して自主再建を始めたばかりの高級料亭船場吉兆全店で、「二度揚げ」ならず刺身のツマまでもが料理の「使い廻し」にされていたことが露顕した。これもやはり元従業員からの内部告発だったようである。「頭(トップ)隠して尻(部下)隠さず」で、「一文惜しみの百失い」の諺通りに「吉兆」という莫大な知的財産を失った。欲呆けの経営者一家にしてみれば、「塵も積もれば山となる」の譬(たと)えで、「残り物に福がある」ように思え、儲けが「濡れ手に粟」するような思いだったのだろう。ところが、残り物には「目先の儲け」はあったかも知れぬが、所詮は残り物で、「福」どころか「毒」しかなかった。女社長が腰を90度に折って、「食べ残しではない。箸を付けていない品(もの)」という弱々しい弁解は、一躍有名になった「囁き会見」を髣髴とさせ更に社長一家の欲ボケを増幅させる結果となった。包丁一本の世界が俎板の「一寸下は地獄」であることを忘れてしまった経営者一家、特に前社長(湯木正徳:創業者の娘婿で現社長の夫)の指示によるものだったらしい。しかし、ポロポロ、ポロポロ、不祥事が暴露される度に再建の道が程遠くなることくらいは分っていた筈にも拘らず、何故、先の不祥事発覚の際に洗いざらい表に出さなかったのだろうか?ここら辺りに二代目の「甘さ」あるいは二代目の「傲慢さ」や「不遜さ」が垣間見える。大体、昔から「身上は3代目で潰れる」というのが言い伝えである。初代は当然ながら「創」の精神で作り、その「創」が時代と消費者に認められて成功を手にする。二代目は初代の精神を承継しながら更に「創」に挑戦し、三代目も同じように更に新たなる「創」に挑戦する。「創」とは今風に言えば「Changeということになるが、真摯にChange とChallenge を繰り返して老舗の地位を得る。これが「商い」の王道である。そのような家業は、初代の苦労を見て育った二代目が潰すことは少なく、生まれながらにして社長の子息という境遇にある、初代の苦労を知らない三代目が駄目にすることが多いものだが、船場吉兆は二代目で雲行きが怪しくなった。創業者湯木貞一氏と陶芸家北大路魯山人によって編み上げられた吉兆の和食文化も、欲に眩んだ二代目、三代目には「犬に論語」か「馬の耳に念仏」だったのだろう。「嘘つきは泥棒の始まり」とは偽装を企てた数多くの経営者に当てはまるが、武田節の人は石垣 人は城 情けは味方 (あだ)は敵」という一節が思い出される。「お客に仇(あだ)」をもって報い、「お客や従業員を敵」にまわした船場吉兆を、如何に地蔵のようなお客さんたちであっても「地蔵の顔も三度」で許しはしない筈だ。今のような有様では多分、船場吉兆は三代目を待たず二代目で消滅することになるだろう。船場吉兆事件は「ブランド信仰国民」への痛烈な警鐘とも皮肉とも言えそうである。

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心神喪失と心神耗弱

心神喪失と心神耗弱   心神喪失とは「精神機能の障害のために意思能力を欠く状態」を言い、心神耗弱(こうじゃく)とは「意思能力はあるが、精神機能の障害のためにその結果を正しく認識し得ずに行為をする恐れがある状態」を言う。また、耗弱(こうじゃく)とは「少しずつ磨り減って弱まる様」を言い、喪とは「失っている状態」、「離れ去っている状態」、「分離して自分のものでなくなる状態」を言う。刑法第39条は「心神喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」と定めている。最高裁は425日、刑法犯罪における心神喪失・心神耗弱の解釈・取り扱いについて「専門家である精神科医の意見は、公正さや能力に疑いがあったり、鑑定の前提条件に問題があったりするなどの採用できない事情がない限り、十分に尊重するべきである」という基準を示した。心神喪失と心神耗弱の判定・判別は誰がするのかという問題点に対して最高裁判決はその担保を専門医師の判断に求めたことを意味する。この最高裁判決によって、渋谷・夫バラバラ殺害事件の三橋歌織被告には無罪判決が下されるのではないかと思われたが、428日、東京地裁の河本雅也裁判長は「殺害時や遺棄した時の行動は被告の意思や判断に基づいて行われていた」と三橋歌織被告に完全な責任能力を認め、15年の懲役刑を下した。最高裁判決に異を唱えるような判決が話題に上っているが、河本裁判長は敢えて裁判員制度に対して問題提起しているのではないのか、と穿(うが)った思いを抱いたくらいタイミングがよすぎた。もうひとつの問題点は、心神喪失(あるいは心神耗弱)状態が「いつの時点で始まり、いつの時点まで持続し終了したか」という点であろう。犯行時と犯行後の心神的行動を分けて個別的に捉えるか、連続して捉えるかによって判決は大きく分かれるように思う。歌織被告の心神喪失状態が「夫を殺害したとき」という突発性・一時性のものなのか、それとも「夫を殺害後バラバラにし分散して放棄した行為時点」まで持続していたのか、によって責任能力が変わって来るであろう。また、三橋歌織被告が日常から夫の異常なDVによって身の危険を感じていた末の、自分の生命を守らんがために精神的に追い詰められて実行したものだとすれば、刑法36条2項に言う正当防衛、防衛の程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる」という条項が考慮されてもよいかも知れない。私は「このような状態が心神喪失状態あるいは心神耗弱状態と言うのだろう」という実例を数例見て来ているが、心神喪失者は治癒後に当時のことを聞いてみると「全く記憶に無い」人が多い。本当に思い出せないのか、思い出したくないのか、私は医者ではないのでよく分からない部分が多いが、一時的に二重人格者となるのではないかと推測している。正常な人格とは別の、もう一つの人格(病んだ人格)が思考し実行している状態となるので、当該者が正常に戻ったとき、当該行動を全く記憶していないという状態が現われるのではないかと想像しているのだが、医学的にそういうことがあり得ることなのか否かまでは分からない。治癒後に当時のことをうっすらと覚えているというのは心神喪失状態ではなく、恐らく心神耗弱状態にあったのではないだろうか。そういう意味で、責任能力の判断には、現在の歌織被告の「心神の病い」が治癒しているのかしていないのかも重要な判定要素となるだろうと思う。裁判員にとっては非常に難しい判断となるだろう。

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21人の大弁護団と光母子殺害「差し戻し」裁判

広島光母子殺害事件「差し戻し」裁判〖さしもどしさいばん〗

   [2008.04.25追記] 23日、悪名高い大弁護団の団長の安田好弘弁護士が東京高裁で有罪判決を受けた。住専の融資先である不動産会社(顧問弁護士)の「資産隠し、差し押さえ逃れを指導した」ことは法手続きを遵守すべき弁護士として「不当」である、という判断である。弁護士資格剥奪だけは免れたようだが、オーム真理教の麻原彰晃を弁護したり、住専からの差し押さえ逃れを指導したり、余り誉められた弁護活動とは言えない。商売としては、弁護料が高額で旨味が多いだろうとは想像するが、死刑廃止活動者の看板は目眩(くら)ましか、と勘繰られても仕方あるまい。この判決は、司法の陰謀という見方もあるようだが、死刑廃止論者も地に落ちたものである。

   [2008.04.22追記] 今日22日、広島高裁での「差し戻し審」において予想通りの死刑判決が出た。そして、弁護団は即日最高裁へ上告した。今日の「死刑判決」は、最高裁が差し戻した時の経緯(正義:JUSTICEの法理念)から見て十分想定されたもので、明らかに暗に「死刑判決」を要求した「差し戻し」審である。事件の重大性、犯罪の残虐性、社会を恐怖に陥れた犯罪方法などを考慮すれば、個人的には「死刑判決」は妥当と考えるが、そもそも、この最高裁の「差し戻し」判断は、憲法67条2項には抵触しないのか?憲法第67条第3項は「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律のみ拘束される。」と定めている。第2審において、広島高裁裁判官は「良心に従い、独立してその職権を行使し」て「無期懲役」と判決したと看做すべきであろう。それをまるで「良心に従わず」に無期懲役判決をしたかの如く、「審議不十分」として差し戻した最高裁の判断には割り切れない思いが残っている。わざわざ「差し戻し」しなくとも、今次も「死刑判決」に不服な弁護団が最高裁へ上告したように、「無期懲役」に不服な検察は死刑を求めて最高裁に上告する筈である。差し戻したことによって結果的には最高裁は重複して判断することになる。もしも「差し戻し」判断が裁判員制度を見据えてのこととすれば、下級審の独立性を歪める因ともなりかねないので、じっくりと監視する必要があるだろう。

   [2007.05.25記] 年前に広島県光市で起きた残酷無比極まる母子殺害事件の「差し戻し」審が始まった。最高裁が言外に「無期懲役の判決を死刑判決に変えろ」と高裁に異を唱えたものであるが、死刑廃止論者で構成された21人の大弁護団(団長安田好弘弁護士)が唱えている驚天動地の内容が公(おおやけ)になった。その主張たるや、「弁護士の弁護活動の使命とは何ぞや?」と首を傾げたくなるようなもので、法廷に出席していた彼らの表情に正義を読み取ることは難しく、重大かつ深刻な殺人事件をまるで「六法全書ゲーム」でも楽しんでいるかのようにしか見えなかった。弁護士の質も地に落ちたものだ。弁護団弁護士の方に精神的適格性鑑定が必要に思える。近年、凶悪犯罪が起こると、被害者の人権よりも加害者の人権の方にスポットが当てられる傾向がある。精神異常者であるとか、その時だけ精神が異常であったとか、殺人の意思は無かったとか、犯罪者の適格性能力と犯罪意思の不存在を主張するパターンが大半で、それらを免罪符にして何とか刑を軽くしようと目論む弁護士たちのパフォーマンスばかりが際立つ。被害者が被った経済的精神的ダメージの大きさに比べれば、加害者側利益の過剰保護が多過ぎやしないか?裁判員制度実施を間近にして気になる、「行き過ぎた」弁護士による「行き過ぎた」弁護活動である。

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政・官・民に求められる「資質」

政と官と民に必要な資質と能力   427日、衆議院山口2区補選がある。山口2区の有権者が自民党推薦者を選ぶか民主党推薦者を選ぶかが、ガソリン税の行方を決めるかのような騒ぎになっているようだが、国政議員をガソリン税云々だけで選ぶというのは頂けない。最近の国政の乱れ、特に国交省・厚労省・防衛省、即ち年金問題、後期高齢者医療制度、独立法人への天下り、無茶苦茶な歳出、収賄贈賄、族議員の横暴等、これら低次元のゴタゴタ問題は全て人間の資質が惹き起こしたものである。人間の資質には先天的資質と後天的資質とがある。先天的資質は後天的努力によって付加出来る割合が小さいが、後天的資質はその殆ど全てが本人の努力や周囲の環境によって形成される。頭脳の明晰さや記憶力は先天的資質と言えるが、倫理観・正義感・使命感・決断力・分析力・透析力・実行力などは後天的資質である。官には概ね頭脳明晰で知識量の豊かな人材が多いが、「頭でっかちの世間知らず」、即ち「机上の空論をひけらかす現場知らず」が多いことが欠点である。現代はもう、「鉛筆舐め舐め」行政が通じる時代ではない。そういう意味で、12種の区分を廃して全ての国家公務員に現場を経験させるというキャリア制度の見直し改革は是非行なわなければならない。官は才であり、民は知恵であり、政は感・観(正義感と倫理観と使命感)である。民は少々頭脳は愚鈍でも、少々知識は足りなくても、時勢・風潮を鋭敏に捉える商才と決断力と果敢なる実行力とに秀でていることが望まれるが、政は官が企図した案件を社会正義に照らして正しく理解し修正検証出来る識見・見識・知識・批判力が求められる。従って、年金問題・後期高齢者医療制度・特別会計に起因する独立法人などの諸々の問題の原因は、官に言い訳できない非があることは言うまでもないが、官を管理監督する立場にある国会議員の資質の低下と能力不足に因ることも大きな理由である。近年の政治家の資質の貧困は、そういう彼らを選んだ国民の真贋判別力の不足によるものと言われても仕方あるまい。日本を変えるのは政治であり、その具現者である国会議員は選挙民の選択眼に依る。そろそろ国民は、口先だけのパフォーマンスに秀でた偽者に惑わされず、冷静に本物を選択して国政に送ることを心掛けなければならないだろう。

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裁判員制度

裁判員制度   

   [2008.04.追記] いよいよ来年の5月21日から「裁判員に指名されたら拒否できない」裁判員制度がスタートする。小泉政治が生んだ国民に不評な制度であるが、人の悪口を言ったり人をけなすくらいなら兎も角、人の一生に関わるような重大な判決には関わりたくないという国民が大多数のようである。法律家でもない、あるいは法律を学んだこともない、あるいは六法全書など見たことも触ったこともない、といった人たちが尻込みする気持ちは良く分かる。また、性善説で人の行為を判断する人もいるし、性悪説で判断する人もいる。単に人を裁くのが好きだという人もいるし、何が何でも弁護したい人もいるし、一切他人事には関わりたくないという人もいる。そのような人たちを勝手に任命して、任命されたら拒否できないという、「国民に拒否権を認めない」制度に、法務省や弁護士会は何故、疑問を挟まないのか?制度不備があることは明らかである。しかも、法律の素人である裁判員によって一審の審決をすることは弁護士に付け入る隙を与え上訴(控訴・上告・抗告)を増やすだけでなく、反って裁判を混乱させ長期化させるだけだろう。来年5月の実施までに、様々な制度不備を改善しなければ、国民性から見てもわが国には根付かないだろう。

 [2006.12.4記] 新しい裁判制度。一審の判決を速めようと採用された制度。アメリカ好きの小泉・竹中政権が取り入れた西部劇型の陪審員裁判制度。「人が人を裁く」という最も難しい判断に素人考えを採り入れようとする裁判制度。採用趣旨は「裁判の迅速化」ということであるが、「拙くても速ければ良い」ということになりかねない。人権無視、恣意的差別裁判に陥る危険性がある。これまでは人間味とは程遠い裁判官が人を裁くということで「人が人を裁く」過ちを出来るだけ小さくしようとする制度であったが、「一審は拙くても速いほうが良い」という理由から敢えて素人を裁判員に採用して「人を素人が裁く」という愚を犯した。

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石原都知事と新銀行東京

400億追加融資を議決[2008.03.29追記]   28日、都議会与党は「400億追加融資」の目的を明確にすることなく融資を議決したが、何を担保に決定したのだろうか?不明朗過ぎないか?今後、従業員も減らし店舗も一店舗に縮小し、中小企業救済のための融資からも撤退するようだが、そうなると「不便で高利」というだけの銀行になり下がり、新銀行東京そのものの存在意義が消滅することになる。そのような銀行に新しい取引先が出来る筈あるまい。とすれば、単なる問題の先送りとしか思えない。何故か?ここで新銀行東京を潰せば、石原伸晃議員が自民党都連会長であることもあり、国政に影響することは必至で、苦難の最只中にある福田自公政権の命運を縮めることになりかねないということだろう。そうでもなければ「追加融資はしない」と明言していた頑固者の石原都知事が一転して「融資派」に鞍替えした訳が不明である。400億という大金は、「開かずの踏み切り」や「歩道橋」や福祉など、道路特定財源に拘らずとも有効な用途は沢山ある。都民の税を与る者なら、もっと真摯に有効な使い道をしなければならない。

  新銀行東京の破綻[2008.03.07記]   都立銀行設立という発想そのものはインパクトがあり、石原知事らしいユニークなものだったが、私自身は私のHP石原都知事の都立銀行設立構想(2003.06.15)にも書いたように一抹の懸念が払拭できないでいた。案の定、5年弱にして懸念していた通りの結果に終わったようである。石原氏は大学こそ「前垂れ」大学として有名な一橋大学の出身であるが、文筆家で政治家という経歴だけでは「生き馬の目を抜く」が如きの熾烈な金融業界への新規参入はやはり見透しが甘かったと言わざるを得ない。結果から見れば貸付審査も債権保全も甘く、都市銀行の「貸し剥がし」による「ババ」を掴まされたことが現在を招いたと言える。現代は超巨大資本の時代であり、1000億程度の資本金では銀行業は成立し難いだろうと思う。そのような情勢の中で、殆ど資本金に匹敵する大赤字を抱えた状態で400億の増資をしても焼け石に水であろう。暫しの命の永らえの効果はあっても、経営の健全化への効果は期待できない。命を永らえることは結局は赤字を増大させることを意味する。石原氏の残念な気持ちは理解できるが、ここはやはり冷静に判断して他の銀行との合併を画策するか、それが無理なら潰すしか無いのではないか。今となっては、苦渋の決断こそが「ご明察」である。潰すとなれば更に赤字が増え、石原知事の責任問題も出るとは思うが、自ら撒いた種でもあり致し方あるまい。

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政治家の適格者

政治家の適格条件   政局がキナ臭くなって来ており、何となく選挙が近いような雰囲気になって来たが(福田総理が解散するとは考えられないので、総裁禅譲か内閣改造かのどちらかだと思うが・・・)、今のような不況下では、実入りの良い政治家稼業を目指す人も多いだろう。多くの候補者の中から「この人なら!」と選ばれるための候補者選出基準(?)をアドバイスしよう。些かでも参考になればと思うが、その基準とは。

     人の話を30分以上聞かないでいられるか。

     自分の主張を30分以上喋り続けられるか。

     道徳言葉をあたかも自分の主義信条かの如く、自分の言葉として平然と語り続けられるか。

     屁理屈も理屈として言い通す詐言・詐術能力はあるか。

     相手の非を咎めるに敏で、自分の非を認めるに鈍であるか。

     責任者として振る舞い、いざとなれば部下に責任を転嫁する能力はあるか。

     私利私略、党利党略、利害得失に敏であるか。

     嘘を真と言い包(くる)めるだけの非誠実性はあるか。

     柔らかい眼差しと凄みのある一瞥(べつ)の効果的使い分けは出来るか。

     官僚利益(官利官略)の伝道者となれるか。

八つ以上該当すれば与党向き、満点ならば大臣も幹事長も夢でなし。貴方は幾つ該当しますか?要は、政治家になる適格条件は一般社会人としての失格者である、ということになるようである。こんな議員ばかりでは、日本はいつになっても良くなる理由(わけ)がない。

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政治家の責任、福田総理の責任

政治家の「責任」観   大臣を筆頭に政治家は、何か事が起こって責任は免れないと見るや、公式の場に出ると、決まって「責任は私にあります」、「責任を痛感しています」などと殊勝な顔をして発言する。巧言令色、美辞麗句、厚顔無恥を絵にしたような政治家が多いだけに「責任」という言葉の大安売りの感は免れ得ない。彼らの口から平然と出て来る「責任」という単語を言葉通りに解釈して聞いている単純な国民はいないだろうと思うが、彼らの言う「責任の取り方」が見え難く理解し難い。「責任を取る」ということは、一般人の感覚では「職を辞する」、「降格も已む無し」といった行為をイメージするが、どうも政治家はそうでないようだ。政治家は「責任を痛感」すると言った後、必ず「二度と・・・(云々)」、「努力する」、「改善するのが私の役目」、「全うする」などといった延命言葉で飾り立てる。中には、自分の言葉に酔い痴れているような風情の大臣もいる。自らの管理統制が不十分であるが為に、即ち早く言えば、謂わば「貴方の無能力の所為で起こっているようなものだから、改善するにも先ず貴方が換わらなければ何も改善される筈がないんだよ」と国民は言っているのだが、古来、国民の声を聞くための耳を持っている政治家は少ない(一説には、国民の声を聞くためではなく、地元選挙民の声を聞くための耳であることが重要)。今も、国民の声が聞き取れない政治家ばかりである。政治家というのは言いたいことばかり言って何かあっても自分の非は絶対に認めようとしない傲慢不遜タイプの人間が多いが、その癖「粛々と・・・」、「真摯に・・・」、「営々と・・・」といった一時代前の美辞言葉を好んで平然と使う癖がある。そして、ポストへの執着・拘りは異常で、何があっても、何が何でも居座ろうとする。政治のポストというのは、その責任の重さに比べて「旨味」が余程大きいのだろう。インド洋の給油艦派遣、日銀総裁の空席、ガソリン暫定税率等々福田総理の失政は数限りなく挙げられるが、福田総理には大して「責任」意識が無いようである。ということは、福田総理の最大の責任は「任期中、解散をせず全うすること」なのであろう。従って、自民党内には、他の事は(責任を)「取るに足らない」程度のことというコンセンサスが存在しているのではないか、と想像している。でなければ、あれ程のスーダラ無責任振りは許されないだろう。(時太山事件に対する日本相撲協会の北の湖理事長の責任観も大差ないように見える。彼なぞは公益法人の理事長よりも政治家の素質の方があるのでは・・・。)

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歩道での自転車事故

自転車と歩行者の衝突事故

[2008.03.19追記] 郊外や住宅地の歩道上での自転車事故を減らすために歩道のあり方について提案したい。郊外都市や住宅地では両側に歩道が設けられている道路が多いが、概して道路も歩道も幅が狭い。この狭い道路を自動車や高速で走る自転車が利用し、自転車は歩道を利用していることもある。そのために必然的に自転車と歩行者との衝突事故が起こり易い。手を拱いているばかりでは能が無いので、一案を提案する。片側の歩道は「歩行者専用歩道」とし、もう一方の歩道は「歩行者と自転車の併用歩道」と明確に区分してみてはどうだろうか。更に、歩行者専用歩道には監視カメラを設置して違反者を取り締まるのである。こうすれば、高齢者や幼令者や車椅子や乳母車等の弱者は「歩行者専用歩道」を利用することで安全が確保出来る。自転車や大急ぎの大人は「併用歩道」を利用することになる。この考え方は「地下歩道」にも応用できる。地下歩道を「歩行者専用」ゾーンと「自転車併用」ゾーンとに区分する訳である。大して費用も掛からず効果が期待できそうな気がするが、如何なものであろうか。

[2008.02.05] 自転車と歩行者や車椅子の衝突事故が社会問題化しつつある。サイクリング・ブームに乗って様々な機能を備えた高性能の自転車も売れている。オイル高騰もその一因だと思うが、数十万円もするものもあれば、8000円前後の「ママチャリ」もある。車に劣らない時速50km近いスピードの出る自転車もあれば、オフロード用のゴツイ自転車もある。これらの自転車が、狭い歩道を歩行者を避けながら右に左に縫うようにして走って来ることに恐怖感を抱いた人は多い筈である。衝突の衝撃力は「運転している人の体重と自転車の重量と加速度の乗算(F=MA)」で得られる。従って、体重の重い人がスピードを出していればいるほど、衝突された人が受ける衝撃力は巨大なものとなる。時速3040km出ていれば1トン近い力になるかも知れない。そんな凶器のような自転車でも、実態としては運転している人には「凶器を運転している」という意識は殆ど無く、むしろ「歩行者の一員」という認識の方が強いかも知れない。この点が大きな問題で、自転車販売店には「安全運転・危険運転教育」を義務付けるなどの策が必要となるだろう。一方、歩行者や車椅子と自転車の事故を軽減するには自転車そのものについても考える必要がある。従って、速度が車輪の直径の大小に大きく関係することを考慮すれば、歩道を走れる自転車は車輪の直径を45cm以下にして、仮に衝突してもカスリ傷程度で済むような「加速度の付き難い(速度の遅い)」自転車にすることも必要だろう。また、車輪の直径がそれ以上の「加速度の付き易い(速度の速い)」自転車は車道(自転車専用ゾーンの整備が必要)に限定し、構造や機能によって強制保険加入制度を設けるといったことも必要となろう。エコ社会の構築から見ても、コストの安い交通機器である自転車を安全で至便な交通機器として肯定的に普及させることを考えねばならない。

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ロス市警の「JUSTICE」の意味するもの

ジャスティスJUSTICE〗   サイパンでの突然の三浦和義容疑者逮捕には驚いた。ロス銃撃事件は日本人の感覚では既に終了した事件であっただけに、殺人事件等の凶悪事件に対するアメリカ司法当局の粘り強さに改めて学ばされた感がする。わが国は法治国家を自負しながらも日本の司法もメディアも日常では「正義(Justice)」という言葉を殆ど使わないだけに、ロス警察の未解決事件捜査班(通称、CCHU:Cold Case Homiside Unit)のリック・ジャクソン刑事が会見の中で度々使った「Justice」という言葉には、改めて新鮮な重みと揺るぎない迫力と有無を言わせぬ説得力を感じさせられた。「Justice」という言葉には「正義・公正・公明正大」「正当・妥当」という意味と、「司法・裁判」という意味がある(米国司法省:The Department of Justice)。ジャクソン刑事の言葉には、アメリカの「Freedom(自由)」が「Justice」という礎の上に築き上げられている歴史を感じた。と言って、沖縄の低級事件に対するアメリカの態度を見る限り、アメリカを「Justice」の国であるとはとても言えないが、少なくとも「自国(米国)内で起きた事件」に対してはより厳しくより真剣になるようである。これも多民族国家であるが故のことだろう。その是非は兎も角も、現代の「日本と日本人」、特に、一部ではあるが、政治家や官僚に最も欠けているのが、この「Justice」の精神ではないだろうか?法律を弄(もてあそ)ぶのが「司法」の意味であるかのように錯覚している輩が多過ぎる。

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小泉政治否定が族議員を復活させた

小泉政治の否定が族議員を復活させた   私は小泉政治を肯定する者ではない。と言って、安倍政治、福田政治を肯定する者でもない。小泉総理の詭弁的マヤカシ政治、目眩(めくら)まし政治には呆れたが、支持率の高さに現われたように「改革」が国民の支持を得たことは間違い無い。「改革」とは小泉流に言えば「ぶち壊し」である。これに逆らう者は「抵抗勢力」となる。宮沢・中曽根元総理を引退させ、郵政解散では反対する者は長老クラスと言えども切り捨てた。独裁者の恐怖政治のようなやり方で族議員の口を封じ、乱雑に「改革」を推進した(今、緻密さを欠いた荒削りな改革に綻(ほころ)びが現われている)。ところが、小泉総理の懐刀の飯島秘書官が去り、国民に信を問うていない安倍政権と福田政権は自らの都合で「抵抗勢力の自民党復帰」を認め、与党勢力の増大を図った。郵政選挙での国民の意思を無視するにも甚だしい所業であるが、総選挙を経ていないからこそ、出来ることでもある。そして、これは自民党内での小泉元総理の影響力がほぼ無力化したことを意味し、殆ど死に体と化していた族議員をゾンビの如く生き返らせた原因でもある。厚生族、防衛族、道路族、金融族たちの顔色の良さと生きの良さが如実にそれを示している。忘れてならないことは、族議員が生き返ったということは官僚が生き返ったことをも意味する、ということである。年金問題では厚労省が叩かれているが、舛添大臣も以前のような迫力は亡くなって来ている。防衛疑獄も守屋・宮崎の逮捕で一件落着気配だし、道路特定財源問題の冬柴大臣の言動には後ろに角を出し牙を剥いている国交省官僚と族議員がチラチラ見える。岡田民主党代表の国会質問は久し振りに鋭かった。国民に信を問おうとしない与党とそれにぶら下がる官僚機構に喝を入れるためにも野党には徹底的に頑張って欲しい。決着の仕方如何では、この国の政治と行く末が決まるような気がする。

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族議員とその弊害

族議員と小選挙区制の矛盾   族議員というのは中選挙区制の遺物である。中選挙区制においては一選挙区から数名の代議士が選出されるのであるから、地域意見の代表者や業界・団体利権の代表者など色々な議員がいても一向に構わない。しかし、一定地域の意見代表者として一人が選出される小選挙区制においては、選ばれた議員は当該地区の多数意見の代表者でなければならない。そのような議員が、蓋を開けてみたらある特定団体の利権の代表者であったということになれば、具合が悪かろう。奇怪(おか)しな話になる訳であるが、一体、どれくらいの「族」が存在しているのだろうか?思いつくまま挙げても、防衛族議員、厚生族議員、道路族議員、文教族議員、建設族議員、医療族議員、金融族議員、郵政族議員、運輸族議員、外務族議員、農林族議員、大蔵族議員、・・・等々時代と利権を背景に殆どの省庁に様々な族が巣食っている。族議員と官僚と業界が「三方良し」の利害関係で成り立っているのが特徴。消費者金融のグレーゾーン金利問題では金融族が声を大にしてグレーゾーン擁護を唱えたことは記憶に新しいし、自民党の郵政族は小泉総理によって切り捨てられ、守屋次官の贈収賄事件では防衛族は首を引っ込めて口を閉ざしたが、今回の道路族は目が据わって姦しい。族議員の存在が国民と政治の弊害となっていることが国民の前に徐々に明らかになりつつあるのは良いことである。族議員は自らのことを、特定分野に詳しいとか秀でていると自負しているようだが、族議員とは所詮「専門家」ではない。極論すれば、単なる特定団体・業界の利益の保護者か、省庁(官僚)の手先でしかない。しかし、族議員には余程旨味(うまみ)があるものと見える。それが証拠に旨味が無いところには族議員と呼ばれる集団はない。皇室族議員というのは聞いたことがないから、皇室を利権の棲家にするほどの悪徳代議士は流石にいないようである。族議員がいないのは宮内庁くらいなものだろう。そろそろ環境族議員というのが発生するかもしれない。族議員の特徴は特定利権の保護のためには党利党略・党議拘束を超えてでも結集する。本来であれば、「良識の府」と称される参議院に族議員がいることは好ましくないが、最近は衆議院では勝てない議員が参議院にまわるようになって参議院も昔よりも「族議員」が増えているようである。選挙制度が小選挙区制度に変わって10年以上経ったにもかかわらず、議員が中選挙区制当時の意識から依然として脱却できないでいることを示しているが、族議員が生まれる背景は企業・業界からの政治献金を認めている現行制度にあることも一因と言える。行政の無駄遣いには必ず族議員の影が付きまとうことからも分かるように、政治の浄化には政治資金規正法の改正と族議員を排除する有権者の意識の変革が重要な要素となる。

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「3分の2議決」によって新テロ特措法成立

新テロ特措法(補給支援特措法)成立   211日、揉めに揉めた(本当に揉めに揉めたのか些か疑問も残るが…)インド洋上での「水」「油」の補給支援法が57年振りという憲法59条第2項の「3分の2議決(316)」によって成立した。オイル暴騰下、各国の喜びはひとしおだろう(その分日本の負担は重い訳だが…)。反対(野党)133票、賛成(自公)340票という与党の圧倒的多数であるが、メディアの調査で見る限り、補給支援に対する国民の支持は不支持を下廻り漸減傾向にあることは確かで、今回の「3分の2議決」が民意を反映しているとは言い難い。しかし、何はともあれ、福田内閣にとっては正に「神様、仏様、小泉サマ」である。郵政民営化法成立のために憲法違反の疑い(衆議院賛成、参議院反対を受けて小泉総理が衆議院を解散したこと)さえある「郵政民営化強引解散」以来、安倍政権、福田政権と二代に渡って「民意を反映していない」政権が続いているが、「郵政民営化」単一目的のための選挙によって当選した彼らの全員が「インド洋上の補給支援行動」に賛成であるとは思えない。にも拘らず、「民意を問うべし」という世論の厳しい声には一切耳を塞ぎ、ひたすら耐えに耐えて小泉チルドレンを懐に温存して来た安倍氏と福田氏の戦略勝ちと言えよう。来るべき選挙を前に、今は無用の長物の如く扱われている83名の小泉チルドレンこそ哀れなものだが、防衛族議員や内閣閣僚は誰一人小泉氏に足を向けて寝ることは出来ないだろう。仮に、どこかの時点で総選挙が行なわれていたら間違いなく「3分の2」の勢力は失っていた。最悪の場合、政権交替もあり得た筈である。そういう意味では、解散総選挙に追い込めなかった野党の敗北と言える。憲法は、衆議院は解散総選挙により最新の民意が反映されるという理屈に則って、衆議院の優位性を認めている。ところが現実は20年以上に渡って、「民意を反映させないために解散をしない」という妙な政権運営がまかり通っているように思う。忌々(ゆゆ)しき事態である。国民に「信」を「問うていない」、あるいは「問おうとしない」政権幹部に「衆議院は民意の総意」などと軽々しく発言しては欲しくないものである。

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C型肝炎訴訟と国家責任

薬害と国家責任

政治判断をしなかった福田政権(12/20)   20日、政府の和解案が発表になった。「5千万件の消えた年金」と同じような無味乾燥な答弁となり、被害者原告団の期待を裏切った結果となった。それまでの、些か期待を持たせるような舛添厚労大臣の発言に僅かながらも期待を抱いていた被害者や患者は多かったのではないだろうか?彼らの惨めな落胆振りが目に浮かぶ。何も知らされずに注射を打たれてC型肝炎になった薬害患者の無残な実態が明らかになればなるほど、当時の厚生省行政の出鱈目さが炙り出される。厚生省官僚は薬品会社の保護と利益の優先に走り、被害者や患者の救済に動いていなかったことが歴然となった。このような有様を知ると、薬害の責任は単なる法律論の域を超えてしまっているように思う。裁判官は法理論を越えて判決をすることはあり得ない。「どうしても」という気持ちを抱いても、裁判官は「政治判断」を示唆することだけしか出来ない。ということは、立法権を持っている内閣は裁判官の意を汲み政治判断(議員立法)によって救済しなければならないということを意味するが、今日の政府発表は官僚意見が強く反映されているだけで政治家の決断は些かも窺われない。政府は何か事あると、その度に消極的理由として予算・財源を持ち出すが、絞り出す財源が不足しているのであれば、政党助成金の3分の1くらいを自腹を切って提供するくらいの議員提案を何故しないのか?昔は自腹を切る政治家が大勢いたものだが、最近は金銭にやたら細かく拘る政治家ばかりとなった。自民党の長期安定政権は、国民の存在を無視し、駄目な官僚機構を育み、それに胡坐(あぐら)を掻いて行政を放ったらかしにして来た姿に他ならない。法理を超えて結論を出せない裁判所の判決に従うばかりが政治ではない筈だ。明日はわが身かと考える国民はいても、何も知らされずに薬害患者にされた人たちに税金が投入されることに反対する国民はいまい。新テロ法の成立には異常な執着心を見せているが、薬害に対しては何と淡白なことか。

薬害と国家責任(12/10)   「HIV訴訟」や「C型肝炎訴訟」に代表される「薬害と国家責任」問題には法律上と道徳上の二面の問題を含んでいる。薬剤には、対症療法用の薬剤と病巣本体を治療する薬剤との二種類がある。不治とされた病気も、当該病気が未だ原因が突き止められない場合、薬剤投与が対症療法となる。それも医学・医療の進歩によって治療法が発見され、いずれは完治できるようになるものである。そのとき、放って置けば生命が危ないとなれば、必ずしも安全ではない薬剤を一時の生命維持のために投与することはあるかも知れない。その心理の裏には、取り敢えず生命維持を図ることを優先し、最悪副作用で新しい病気を併発した場合は、他の薬剤で対症し、当該病気の完治薬が出来るまで生命をつなぎ止めて置こうという心理が働いている可能性も否定できない。医師としての善意に発したこの行為(勿論、本人や家族の同意を要する)を法律論だけで云々することは出来まい。しかし、日本の薬剤認可・取り消し行為は何故にこうも遅いのだろうか?ある意味では、HIV症の「非加熱血液製剤(旧ミドリ十字製:現田辺三菱製薬)」もC型肝炎症の「フィブリノゲン剤(旧ミドリ十字製:現田辺三菱製薬)」も、旧厚生省官僚の「遅過ぎた決断」あるいは「決断しようとしなかった決断」にあったと言える。いずれも米国やヨーロッパにおいては既に「非加熱血液製剤」や「フィブリノゲン剤」の副作用は明らかになっていた。旧厚生省がこれを知らなかった筈はなく、旧ミドリ十字(現田辺三菱製薬)の利益のために使用禁止措置を採らなかった疑いもある。これが大勢のC型肝炎患者を生んだ原因である。諸外国にも対症できる薬剤が全くなく、副作用が危惧される「フィブリノゲン」しかなかったというのであれば、生命の維持のために已むを得なかったかも知れない。ただ善意の医師には酷であるが、このような場合でも、法律上の「事務管理」の考え方からしても、その副作用で新たに発生した病気を完治させる責任は免れないのではなかろうか。ところが、今問題のC型肝炎症は、米国やヨーロッパにおいて既に「フィブリノゲン剤」の副作用で発症することが明らかになっていた訳である。ということは、薬剤の許認可・禁止権をもっている旧厚生省の行為は「不作為」であり、「未必の故意」と言われても仕方なく、旧厚生省の責任は免れ得まい。現在でも、日本では認可されていない名薬がアメリカで認可されているために、その治療を受けるために何億円もの寄付を集めて渡米する患者がいる。何故、諸外国が認可している薬剤や治療法を速やかに認可しないのだろうか?日本にその病気そのものが無いのであれば兎も角も、少なくとも米・営・独・仏辺りで承認された薬剤は遅滞無く認可すべきであろう。「速やかな認可・禁止行為」こそ行政の行為責任であり、これを怠っている国家が責任を免れようとする姿勢は許されないであろう。

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謝罪会見を見て:朝青龍と亀田大毅

謝罪会見   11/30、朝青龍と亀田大毅が謝罪会見をした。二人に共通していたことは、「お騒がせして申し訳ありませんでした」と、本来「謝るべきこと」には一切触れなかったこと、謝罪にしては天井を見上げるようにして平然と記者団を見下ろすような「頭を下げない」態度と目付き、「一からではなく、ゼロから出発します」という申し合わせたような発言、その外諸々。何を改心し、今後、どのようなプレーヤーを目指すのかについての改心抱負は一切述べなかった。どうしようもない二人に、多くを期待する方に非があるのかもしれないが、この二つの謝罪会見を見ていて、これをプロデュースしたのは同じ人ではないかと勘繰りたくなるくらいよく似た会見だった。問題を起こした時点に時計の針が戻ったような、あるいは停まっていた時計の針が突然動き出したような異様な感じを受けた人も多かっただろう。謹慎の効果が現われていないように感じた。謝罪の仕方についての指導はあったのだろうが、それを聞こうとしない二人の姿が見えるようだった。脇に座っていた高砂親方と金平会長の方が痛々しく、何かトンデモナイことが起きはしないかと、キョロキョロ、オドオドとした落ち着かない姿が印象に残った。格闘技には「悪役」が必要である。そんなことは百も分かっているが、横綱やチャンピオンに「悪役」を求めるファンはいまい。むしろ彼ら二人がダーティーさを捨て、聖域である土俵やリングに上がった途端、これまでとは全く正反対の「騎士」に変身するぐらいの殊勝さと変化を会見に期待した人の方が多かったのではないだろうか。彼らの会見態度は、「間違いなく再び、問題を起こすだろう」という確信的予感を呼び覚ましただけだった。興行というビジネスとは言え、高砂親方と金平会長には同情する。

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お菓子・食品の偽装詐欺と時効

食品偽装犯罪と時効   食品の偽装詐欺の内幕が次々に明らかになっている。北海道のミートホープ社では創業時からインチキ・ミートを作ってボロ儲けしていたことを社長自ら白状した。赤福も、数十年に亘って偽装を行なっていたことを先代社長自ら認めた。船場吉兆、白い恋人、ペコちゃんの不二家、御福餅、比内鶏、森永乳業、明治乳業、雪印乳業、その他諸々……、古今東西、どこもかしこも盗っ人のような詐欺会社ばかりで、大量生産品は全く信用できない世の中となった。世界を見廻しても先進国の中にこんな国はないだろう。日本は情けない国になったものである。安心できる物を買うには生産地や生産者まで確認するしかないが、昔は街々に地元の商品を販売している八百屋、魚屋、肉屋、駄菓子屋が必ずあったものだが、スーパーやコンビニに席巻(せっけん)されて町中では探そうにも殆ど見掛けなくなった現在ではそれも出来ない。こうなれば、大手スーパーよりもまだ地元仕入れ品の多い地元スーパーの方が信用できるような気がする。大体、工場製品が自主検査主義(ISO)になってから、食品や菓子の不正偽装が増えたように思う。昔は、JIS規格に基づいた作っていた。JIS検査員が時折り来て現物検査をしていた。グローバル・スタンダード風潮下、物造り基準がJISISOとなったが、ISOとは製造する「理念」と「作り方」を審査し、その製造基準を経て出来た製品は良品である筈という考え方で、出来上がった製品を第三者がチェックするJISとは根本的に異なる。そういう意味では、「商品の安全」は作り手の良心に担保されているに過ぎないという危うさである。作り手が盗っ人や詐欺師であった場合、消費者は悲劇である。また、食品や菓子の不正が数十年に亘って行なわれているのに、その犯罪の時効が年か年というのは余りにも短か過ぎる。食品が因で「死ぬ」こともあることを考えれば、時効年限についてもっと厳しく再考すべきである。石川五右衛門が辞世の際に「浜の真砂は尽きるとも世に盗っ人の種子は尽きまじ」と詠んでいるように盗っ人や詐欺師がいなくなるとは思えないが、時効が無くなれば「偽装や不正は割に合わない」と考える者も増えて犯罪も減るのではないか。時効というのは、一面では「バレもと」発想を促すものだけに、殺人に時効がないアメリカのように、わが国も「時効の無い」犯罪を設けては如何だろうか。

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政治資金規正法はRuleか?Lawか?

ルールRule法律Law   第二次安倍内閣においても依然として政治資金規正法絡みの不祥事が続いている。当該政治家には「しまった !」という表情は窺えるが、MannerEtiquette(礼)Ethic(倫理)といった面での反省の色は見えない。さすがに逆風の中では、以前のように「ルールに従って処理している…」と「ルール」を持ち出して開き直る議員は減って、勘違いや単純ミスで誤魔化そうとする議員が増えた。安倍総理や松岡農水大臣や塩崎官房長官らは好んで「ルール」という言葉を錦の御旗の如く振りかざしていたが、立法府の中心人物にも拘らず、どうして「法律に従って…」と言わないのだろうか?つらつら考えてみた。「ルールRule」という言葉を日本語に訳せば、「法律Law」、「法規」、「規定」、「規範」、「約束事」、「規則・規制Regulation」、「掟Rule」となる。Lawは権力を裏付けにして上が下を服従させることを意味する。Ruleも同じような意味であるが、根本的違いは「相互に」あるいは「相互間で」というニュアンスを含んでいることである。そのために感覚的にはLawよりも柔らかい。従って、憲法や刑法などはLawが正しい表現であり、Ruleと言うのは正しくない。Rule(又はRegulation)とは、仲間集団、小社会、狭い地域、業界のような限定された社会組織等における秩序を維持し、スムーズに運営するための相互の約束事や取り決めということになる(不良仲間の「掟」などはRuleに当たり、その中では反社会的規範も存在することになる)。従って、国会議員は「ルールに従って…」ではなく「法律に従って…」と言わなければならない。ところが、何故か、政治資金についてはRuleという言葉を好む。それは多分に、国会議員仲間という閉鎖的で特権意識の強い小さな組織、即ち仲間社会を取り締まる政治資金規正法なぞ、仲間で自分たちに都合の良いように作ったものであるから、法律という認識よりも反社会組織の「掟」と同程度の認識しか働いていないのだろう。だとすれば、正直である。しかし、政党助成金が無く企業・団体献金のお金で政治活動がなされていた昔ならともかく、政党助成金として国庫から数百億円もの資金が供出されている現在では、国民の声をよく聞いて国民が納得する政治資金規正法に改めるべきである。「ルール」という表現には最近の政治家の表現力低下が現われていると思うが、それとも、そんなことは百も承知之助でのことか?

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政治資金「一円から領収証」の意味するもの

「一円から領収証」の意味   政治資金の透明化で今国会で議論されているものだが、これは、国庫から支給される政党助成金を受け取る政治団体(政治資金団体)だけに適用される「政治資金規正法」の話で、その他の政治団体の政治資金まで透明化しようとする話ではない。この二重構造である点が残ることが最も重大問題である。現法は「国民の税金からの政治活動補助金」ということで、領収証の添付や使途の明記を義務付けているが、それでも「五万円以上」に限定しているに過ぎない。この「五万円を一円」にしようというのが改正主旨だが、自公間ではまだまとまっていない。自民党上層部は、何とか不透明部分を残そうと躍起となっているように見える。「何故、一円から領収証が要るのか?」、改めて説明を要するようなことではない筈だが、与野党議員とも皆、白ぱっくれているように見える。数ヶ月前は「事務が面倒だ」と手間を理由に挙げていたのが、国民が納得しない(票を失う)と見るや、「政治活動費を公開すると自由な政治活動が出来ない」、と発言が変わって来ている。ということは、使途を明かせない政治資金を使っている、と白状したようなものである。国民は「それ」が知りたいのである。ある議員は「民間でも領収証を公開していない」という言い方をしているが、民間企業でこれに該当するのは「交際費」や「寄付金」である(領収証は添付され、相手が明示されている場合もあるし明示されていない場合もある)。相手が明示されていない場合、いわゆる「使途不明金」ということになり、税務署や国税庁は「損金処理(非課税処理)」を認めず、利益分を使用していると見做して課税対象(益金処理)とし、課税する。即ち、これらを含めた全利益に基づいて法人税、法人県民税、法人市民税が算出され課税される(所得を隠せば「重加算税」が課される)。政治家の場合、議員報酬(渡し切り通信費等は非課税)には所得税等の諸税が課せられるが、政治資金には課税されない。しかし、政治資金としてプールされている資金が政治活動以外に使われた場合(個人的趣味嗜好飲食費や株式等への投資等の私的流用)、これは政治活動費ではなく当然課税所得(国庫からの政党助成金であれば国庫へ返還すべし)となる訳で、その額は個人の所得と合算されて課税されなければならない。その分、所得税、住民税、社会保険料(年金保険・健康保険)が上がるということである。しかし、その他の政治団体にプールしている政治資金については、領収証の添付は勿論、公開もされていないために税務調査のしようが無い、というのが実情である。言い換えれば、政治資金という隠れ蓑に隠れた課税逃れ(脱税行為)が行なわれている可能性が大きいということになる。公私をきちんと分けている議員は一握りだろう…。現在の政治資金規正法は税金において国会議員を特権階級扱いしていると言われても仕方ないのではないか?国会議員も、所得を「一円」から厳しくチェックされて課税されている国民と同じように課税されるべきことは当然だが、そのためには全ての政治団体について「一円からの領収証添付」を義務付ける改正を行なわなければ、やはり「ザル法」となるだろう。会計的に「一円からの領収証」の添付を制度化し、更に公開を義務付ければ、公金(政治資金)か、私金(個人資産としての金銭)か、の区別の分類も可能となり、政治資金の「入り」と「出」が透明化し、政界を浄化させる起爆剤となるだろう。政治資金のうちの私金流用分についての課税を地方議会の議員まで広げれば膨大な額が国庫に入る筈だ。国家財政難の折り真剣に考える必要がある。

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刑罰としての死刑とその執行:鳩山vs亀井

死刑執行と死刑廃止   朝日新聞によれば、鳩山邦夫法務大臣が「ベルトコンベヤーって言っちゃいけないが、乱数表か分からないが、客観性のある何かで事柄が自動的に進んで行けば、大臣が絡まなくても(死刑執行が)自動的に進む方法がないか」と発言したことに、死刑廃止議員連盟会長の亀井静香(国民新党代表代行)氏が「人間の命を機械みたいにボタンを入れておけば次から次に殺されていくようなイメージで扱っていいのか。法相の資格もなければ人間の資格もない」と噛み付いたらしい。最近の凶悪犯罪の多さには驚くばかりである。ほぼ毎日、日本のどこかで殺人事件が起こっている。殺人方法は巧妙化し、犯意を解り難くすることにも長けて来ているように見える(犯意を不明にすることで業務上過失罪しか問えないことが起きる)。しかも殺人犯の年齢もドンドン低下しており、少年法の改正(14歳→12)も行なわれた。また、人を裁く上での基点となる警察や検察の取調べ(証拠等)の未熟さやいい加減さも目立ち、冤罪も多い。現在服務中の囚人の中にも十分冤罪該当者がいることが予想される。袴田事件の熊本裁判官が暴露されたように、三人の裁判官のうち死刑採決は二人で、主審判事である熊本氏だけが無罪という採決であったが、多数決で袴田被告は死刑判決となったそうである。このような「人の過ち」を見るとき、過った裁判官を咎めるには忍びない。それだけに当然、死刑執行にあたっては、法務大臣は最終判断者であるだけに慎重にも慎重を期さなければならない。判決が確定したから速やかに死刑を執行すべき、ということにはならない筈である。これらを踏まえて死刑を考えるとき、死刑制度廃止論者は多いが、法律としての死刑(立法権)と判決としての死刑(司法権)と死刑執行(行政権)とに分けて考えなければならない。刑事罰制度として刑罰の最高刑に死刑を置くことは理論的に適っている。裁判官(司法権)が、刑法(立法権)の定めるところに従って公平適正に判断し、その結果、最高刑が妥当であれば死刑を宣告しなければならない。その死刑判決を執行するか否かは行政権の長である法務大臣の判断に委ねられる。これが現在の制度である。歴代法務大臣を見たとき、在任中一度も「死刑執行書」に署名しなかった大臣もいるし、ポンポン署名した大臣もいる。これでは時の法務大臣によって受刑者への刑執行の不平等が起こることになる。鳩山氏は、この点の不合理を合理的に見直した方がよいのでは、という提案をしたかったのだろうと思う。亀井氏は刑罰理論から「死刑」という概念を抹消すべきである、という考えだろう。だが、刑事罰を考える場合、恩赦制度も併せて考慮する必要があろう。制度的に「死刑」を廃止し最高刑を「無期懲役」とした場合、恩赦によって刑期が短縮された凶悪犯がアッという間に社会復帰して来ることを忘れてはならない(仮に「無期懲役受刑者には恩赦を適用しない」という法律を作った場合、「法の下の平等」原則に反し違憲の疑いがある)。最高刑として「死刑」があれば、たとえ恩赦になっても「無期懲役」となり、凶悪犯の社会復帰は防止できる。司法権に基づいた「死刑」と、行政権に基づいた「死刑執行」を同一次元に置けるのは、警察権、検察権等の制度や信頼性の向上を図ってからであろう。

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総裁選:「麻生or福田」政権は?

総裁選:「麻生or福田」政権は?   16日朝のNHK「日曜討論」で麻生氏と福田氏の政治討論を見た。両者の本当の姿は総理総裁就任後のリーダーシップ、政治姿勢、国際感性、等々の表に現われた言動によって想定するよりないが、麻生氏については外務大臣等数々の役職経験があり、国民はその時々の麻生氏の言動に接して来ており、まだ「解かり易い」と思っている筈である。しかし、福田康夫という人は国民レベルでは二世議員という程度の認識しかなく、政治家としての姿は官房長官時代の、ある時は「ひょうひょう」として一言、ある時は「皮肉」っぽく一言、ある時は「強圧的」に一言二言、ある時は「……」といった具合に、短い言葉と一瞬の姿を見聞して来たぐらいの記憶しかなく、一国の命運を預ける総理総裁としての適否を判断し得るだけの材料を持っていない人が大半だろう。そういう意味では全く未知の人と言え、福田氏が総理総裁に就任すれば、群馬県以外の国民諸氏にとっては「何が起こるか」、「未知との遭遇」となる。そもそも安倍総理が、見るからに冷酷無比な「鷹」面の小泉氏よりも高い支持率を得たのには、安倍氏の見るからに優しそうな「鳩」面が寄与していたのだろうと考えている。私は安倍氏に対しては当初から小泉氏以上の「危険な右寄り」を感じていたが、数々の強行採決を見ているうちに国民もうすうす感じ始めていたのではないだろうか。振り子の原理ではないが、それだけに次期総理総裁にはよりリベラルな人を期待しているだろうと思う。「リベラル」とは、「文民政治を前提にした国家の利益と国民の利益のバランス」ということになるが、これに「アメリカの利益」を露骨に付加したのが小泉・安倍政権である。それが因で格差を拡大し、支持率を下げたと言っても過言ではない。その点、麻生氏は安倍氏よりリベラルに見える。日曜討論を聞いた限りでは福田氏もそれほど「右寄り」ではないように思う。特に、福田氏が「議会制民主主義」を標榜したのは良い。しかし、「右寄り」議員の全員が福田氏を推薦していることに一抹の懸念が消えないことも確かである。これが、自民大敗による「ねじれ」がもたらしたものであれば、「ねじれ」が政治を正したことになる。小泉氏安倍氏の、議会制民主主義を殆ど否定したような独裁的政治から見れば、幾分かでも健全化して来つつあることは喜ばしい。それにしても、九ツもの派閥があるにもかかわらず、勝ち馬に乗ろうとする者ばかりで、「ババ」でも引かなければならぬと考える領袖や議員が極度に少ないのは情けない。

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総裁選を巡る小泉氏の不可解

総裁選を巡る小泉氏の不可解   総裁選を巡っては毎回各所に不可解な動きが起こるが、今回も例外ではない。最たるものは、小泉元総理の迅速機敏な動きであろう。筋論から言えば、基本的には安倍政治を承継する麻生氏も、小泉政権下で官房長官を務めた福田氏も、小泉政治の承継者であることに変わりない。参院選挙の民意を反映する総裁選を行なおうとしているのなら、小泉氏は動くべきでなかった。にも拘らず、小泉氏はいち早く福田氏支持を表明した。これによって、麻生総裁誕生に動いていた流れが一瞬のうちに福田氏の方に変わり、大勢いた立候補予定者も引っ込んでしまった。これでは、派閥の力関係で決まっていた旧態依然の総裁選に戻ったとしか見えないだろう。再生自民党を期待している国民を裏切ったのではないだろうか。それにしても、「自民党をぶっ壊す」、「派閥政治をぶっ壊す」と言った小泉氏は、何故、かっての旧森派を引き継いだ町村派(名誉会長森喜朗)の推薦を受けて立った福田康夫氏をいち早く支持したのだろうか?これを推測するには歴史的な深い訳を無視することは出来ない。かって田中派隆盛時代、橋本竜太郎首相(田中派)が参院選敗北を受けて総辞職すると、小渕恵三首相(田中派)が誕生。そして小渕首相が病気で倒れた後、密室五人衆によって首相となったのが悪名高い森喜朗元首相(福田派)。森首相が失言・総理の資質問題で失脚すると、小泉首相、安倍首相と国民の審判を受けていない森派(旧福田派)総理が連続して誕生することになる。森派が総理総裁の椅子を私物化した観があった。小泉首相が「自民党(派閥政治)をぶっ壊す」と叫んだことに、多くの国民が幻惑され拍手喝采の嵐が沸いたが、「叫び」の真の目的は大派閥田中派の力を殺()ぐことにあったと見てよい。小泉首相は組閣に際して、慣例となっていた派閥推薦制をやめ、「官邸主導」「総理支配」と言われる形を飯島勲秘書官と作り上げ、閣僚任命権を手中にした(人事権の独占収奪)。この結果、大派閥田中派は内閣人事や閣僚人事において徹底的に冷や飯を食わされることになり、選挙の度に櫛の歯が欠け落ちるように崩壊縮小して行く。こうして田中派は「驕(おご)る平家、久しからず」、現在の影薄い存在となってしまった。裏では「角福戦争」の遺恨試合が延々と続いていたのである。その間、少数派閥であった森派(旧福田派)は順調に拡大し続け、郵政解散総選挙において小泉チルドレンを誕生させて急拡大し巨大派閥となった(無派閥だが実質上小泉ファンクラブ)。森派にとっては小泉総理の輝かしい功績である。これが、現在の自民党の姿で、自民党とは即ち森派(現町村派)であると言ってもよい有様である。反面、麻生太郎氏が率いる麻生派は宮澤派を母体とするが、河野洋平氏とともに出て設立したもの。谷垣派は「加藤の乱」で有名な加藤紘一氏の加藤派の流れ。派閥の流れから見ると谷垣氏は反福田のように見えるが、谷垣禎一氏が福田氏支援に廻ったのは共に反安倍という仲間意識も働いているのかもしれない。小泉元総理がいち早く福田氏を推したのにはこのような訳があったのだろうと見ているが、脳裏には派閥相関図が浮かんでいただろう。自民党は、風を呼び戻せるだろうか?

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総裁選びは、惣菜選び?

総裁選〖そうさいせん〗   安倍総理の突如の政権投げ出しによって国会開会中の自民党の総裁選挙という前代未聞の事態が現出した。世界中の物笑いになっているようである。これには、安倍氏の次を狙っていた筈の麻生氏は、このような形での内閣総辞職という事態に、しかも幹事長という役職で遭遇し、慌てふためいているのではなかろうか。71歳の福田康夫氏は、棚から転げ落ちて来た牡丹餅を拾いそうな状況になって来た。若手のホープであった谷垣氏も次の次くらいに退歩したようで、若さを売りに出来なくなりそうである。いずれにしても福田氏になれば、180度くらいの政策転換の可能性もあり、早急に解散総選挙で再出発すべきであろう。政権与党の総裁選びは、日本の総理大臣を決めることに等しい。昔の自民党には傑物が輩出していたが、小沢氏が党を割って出てからは小者ばかりが目立つ。その中から、派閥力学によって総裁に選ばれた者が日本の総理大臣となる訳であるから、安倍氏のような無様な辞め方をする総理非適格者が総理になる確率も高くなる。例えてみれば、バイキング料理レストランのようなものである。そこそこの料理が揃っているように見えるが、いざ選ぼうとするとキズモノが多く、食欲をそそる料理がなかなか見つからない。結局は、限られた料理の中から我慢を強いて新鮮で美味そうなものを選ぶしかない。所詮は、好みと満腹の妥協で、食後に何を食べたか思い出せないようなありきたりの食事となる。選り好みの妥協という点では、一面、総裁選びもおかず選び、即ち惣菜選びに似ていなくもない。派閥の利害得失で選ばれた総裁が人格識見共に秀でていることはむしろ稀で、問題が起こる度に政治評論家の間では「総理の資質」が話題に上り、国民の間では大統領や県知事と同様「総理大臣直接選挙制」導入が話題に上る。最近のように、国民の審判を経ようとしない「居座り型」総理大臣が増えると、一考の余地があるようにも思える。

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「しょくせき」は、職責か?職席か?

安倍語:職責?職席?〖しょくせき〗   APECが開かれているシドニー(オーストラリア)9日、ブッシュとの会談後、安倍総理がまたもや理解し難い「安倍語」で会見した。テロ特措法(テロ対策特別措置法)の継続について記者からの「給油活動を継続できない場合は?」との質問に、「国際公約であり…当然、職責にしがみつくということはない」と答えていた。常識的には「政治責任をとって内閣総辞職をする」という意味となる。しかし、「しがみつく」という対象が椅子(総理総裁の椅子→職席)であれば理解できるが、「職務の責任にしがみつく」となると意味不明。「職責」に他の意味があるのか知らん?そう思って広辞苑を開いてみると、やはり「職責 職務上の責任。例:職責を全うする」とだけあった。となれば、「職責を放り投げる」という意味になる。これでは後継総裁も困るだろう。また、突如出て来た「国際…」という言葉も変である。「的」の意味も不明だが、「アメリカとの約束」がいつから「国際公約」になっていたのだろうか?密約でもあったのだろうか?余計なことまで考えたくなる。安倍総理の表現には「××的」など氏独特の表現が目立つが、中国語では単純に「的=の」を意味し、日本語では「状態」や「性質」を意味する。松岡大臣の自殺後の会見では「慙愧に堪えない」という二通りに解釈できる発言もあったが、兎角、若者の日本語が乱れていると言われるけれども、率先して日本語を乱し曖昧にし混乱に陥れているのは安倍総理自身だろう。今日から国会である。正確な日本語で分かり易い答弁を願いたい。

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身体検査はチルドレン向け?

身体検査〖しんたいけんさ〗   安倍政権になって「政治と金」絡みの大臣辞任が相次ぎ、国会議員の「身体検査」が話題になっているが、本来、身体検査というのは、定期的に小中学校の生徒の身長・体重・目・耳・栄養等を問診したり測ることによって健康状態や成長度合いを調べることを目的としている。教育制度の一環であるこの小中学生向けの言葉が、政治家の身辺のクリーン度を調査する意味の政治用語として使われるようになってから既に長い月日が経っているが、最近の国会議員の質を見ると見事に本質を見抜いていて言い得て妙である。只々、この言葉を考え出した人の感性の鋭さに感心している。本来であれば、国会議員クラスは「政権の癌細胞」を見つけるぐらいのCTスキャン検査」や「MRI検査」や「PET検査」レベルのシビアな精密検査が必要であろう。国会の入り口に「金」や「金絡み」を探知する「金属探知機」を置くのも効果的かも知れない。更に、最近の「物言わぬ」大臣や反対に「一言言い過ぎ」大臣を見ると、彼らの脳の中も検査してみたいと思ったりする。しかしこれは「思想・信条の自由」を定めた憲法に抵触するので諦めなければならぬ。そんなことを考えながら、国会には小泉チルドレンや安倍チルドレンなど、最近国会議員になったばかりの「チルドレン」がウヨウヨしていることを思い起こすと、やはり問診程度の「身体検査」ぐらいの方がピッタリかも知れぬ。MOTTAINAI !

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「白い恋人」よ、お前もか!

「白い恋人」   「白い恋人」までもが賞味期限切れの商品をラベルを書き換えて出荷していたらしい。この事件に接して、数年前、北海道旅行をした友人から「白い恋人」をお土産に戴いた時に我が家で起きた小さな出来事を思い出した。包装もデザインも全く変わらないのに、袋の中から出て来た「白い恋人」は、一口かじった時、何故か湿気たようにシワシワで、サクサク、パリパリッとした食感が全く無かった。クッキーも、間に挟まれたチョコレートも何となく新鮮味が感じられず味自体も舌が覚えているものとは少し違った。その時は一瞬「?」と不思議な気がしたが、賞味期限も十分あり、私自身、「こんな白い恋人もあるのか。知らなかったなぁ」と自分の無知を恥じ入るように思い直した。一緒に食べた家人も「いろんな種類があるんじゃないの?しかし、この前のの方が美味しかったね」と露ほども不審がってはいなかった。まさか、賞味期限を過ぎた「白い恋人」が偽装されて販売されているなど微塵も考えなかった。今にして思えば、あの時の「白い恋人」こそが今話題の賞味期限切れ商品だったのだろう、と妙な納得をしている。老舗の名店の商品には贋物が出回るというのが普通であるが、老舗の名店が自ら不良品を販売して、どんなメリットがあると考えたのだろうか?一個でも沢山売りたい気持ちは理解できるが、経営者が「万が一」で失うものの大きさを考えない筈はなく、何とも理解できない。それとも、時代が変わりつつあるのだろうか? 

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「スピード感をもって…」という安倍語

スピード感speedかん〗   「消えた年金」や「新潟中越沖地震」等々、問題や災害が起こるたび安倍総理は決まって「スピード感をもって…」という言い方をする。誰にも独特な言い回しや好きな言葉はあるものだが、安倍総理のはご本人は理解されているのだろうとは思うが、まるで「安倍語」で他人には理解し難い。最近とみに耳にする「スピード感をもって…」という表現も「スピード」に「感」が付いただけで、途端に解らなくなる。「スピード感」というのは本来「感じる」ものであって、行動の有様を示す言葉ではない。何故、「迅速に…」とか「素早く」とか「スピーディーに」という行動表現をしないのだろうか?ひょっとしたら、「感」を付けることで、役人だけに通じる「外面的には迅速に、実際は程々に」というような暗号かも?、とついつい勘繰りたくなる。「美しい国」の「美しい」という語も解り難いし、参議院議員選挙を前に耳にする「闘う(戦う?)政治家」という「闘う」の意味もよく解らない。一人相撲のようにも見えるし、一体、誰と闘うのだろうか?靖国神社隠密参拝を問われて、「行ったとも行かなかったとも答える必要はない」という答弁にもなっていない答弁もさっぱり解らない。いっその事、誰か「安倍語解説辞典」でも出さないかなぁ。

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またまた姑息、「放射能漏れは無い」という塩崎長官

塩崎官房長官の「放射能漏れは無い」談話   新潟中越沖地震が1013分に発生したとき、2分後の15分には既に柏崎刈羽原子力発電所の3号棟脇からモクモクと黒煙が立ち昇っている中に真っ赤な炎も見えた。しかし、消防車はおろか、火災を消そうとする人も検査官らしき人も一人としては見えなかった。そんな中、1145分ころ、突如として塩崎官房長官が「現在時点では、放射能漏れはありません」という緊急談話を発表した。テレビの実況中継画面を見ていた人であれば、この塩崎発言の根拠を疑った筈である。私は見ていて、誰一人として火災を消しに行かないのは放射能漏れを警戒しているからだろうと思っていたので、塩崎談話を「そうか。それは良かった」と単純に信じることは出来なかった。むしろ、年金問題で「国民の不安を煽るのか」と息巻いた安倍総理の姿が思い浮かび、塩崎官房長官は安部総理に「国民に不安を抱かせないように現時点では、放射能漏れは無いと官房長談話を出すように」という指示を受けての発言だったのだろうと想像している。塩崎官房長官にしてみれば「現時点では」という言葉で自分の発言の担保を確保していたつもりだろうと思うが、夕刻には放射能漏れが発覚したのであるから、塩崎官房長官は国民を騙そうとして談話を発表したことは否定できない。余りにも国民を愚弄している。事が原発の放射能漏れとなれば、内閣官房長官は責任を問われるべきではないのか?黙って見逃すことは出来ない。

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柏崎刈羽原発の安全基準「想定外」事故

想定外〖そうていがい〗   716日午前に起きた新潟県中越沖地震で柏崎の刈羽原発で二件の「想定外」事故が発生した。一件は6号機の冷却水水漏れ事故。想定した250ガルを遥かに超えた680ガルという加速度による水槽の揺れによるものらしい。もう一件は3号機室外の火災事故。稼動していた原子力発電装置を緊急自動停止したとき、原子炉を一定温度まで冷やすために冷却水を炉心炭素棒へ送り続けるための発電装置の一部が原因不明の火災を起こした事故である。原子炉の心臓部である炉心部の事故であるために、「原因不明」としか発表できないのはお粗末過ぎ、極めて遺憾である。事故が起こる度に会見で必ず出て来るのが「想定外」という言葉。想定は人為的なもので、想定の基準の理非問題であるが、人為的に想定できるにも拘らず敢えて低く想定したとしか思えない「想定外」と、今の科学では人為的に想定不能の「想定外」の二種類の「想定外」がある。40年くらい前は耐用年数の倍以上使える家電品が当たり前だったが、いつの頃からか耐用年数を超えた途端見事に壊れる家電品ばかりになった。その技術の確かさには驚かされる。各社とも安全率1.151.25くらいを想定しているようだが、これも日本の技術の進歩の為せる技で、コスト的に「過剰品質」を掛けられない価格商品については見事な「想定内」と言える。しかし、安全を守る設備や機械などについてはこのようなギリギリの「想定」は問題である。特に、地震・雷・津波等未だ解明されていない自然現象を原因として起こる「安全に関わる事故」については「想定の2倍」くらいを国の基準とすべきだろう。想定基準を低く抑えれば、競争原理の中でのコスト競争は最低の安全基準しか実現されず(実際はそれさえ怪しいが)、事故が起こるたびに「想定外」という理由にもならない理由が大手を振ってまかり通ることになる。原発は一度事故が起きれば人命面からも環境面からも取り返しのつかない事故となる。地震被害が「被害の大きさ=震源の深さ×マグニチュード」の関係にあるようにマグニチュード基準だけで十分とは言えないが、想定以上の高い安全基準を設けるべきことは明らか。特に、関東大地震というM7.9の実例からしても、マグニチュード6.5maxを想定して設計されたという刈羽原発は甘かったと言うしかない。恐らく多数意見で決定されたのだろうと想像するが、原発安全基準であるマグニチュード数値は最も大きな数値を採用すべきである。

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いよいよ、消費税率アップか?

消費税率UP〖しょうひぜいりつアップ〗   参議院議員選挙を前に2年前に「100年安心」年金と銘打って作った年金制度が大問題化している中で、更に新たに消費税率のアップが大問題化しそうな気配になって来た。切っ掛けは、安倍総理がどこかのテレビで司会者に質問されたとき、突如、感情を荒げて「消費税を上げないとは言っていない」と発言したことによる。ニュアンス的にはどうも与党の絶対多数を背景に来年11日あたりから値上げをするつもりだったように見えたが、それを受けて各野党が「それなら与党は参議院議員選挙のマニフェストに消費税率アップを載せろ」と騒ぎ始めた。ところが、安倍総理は例の歯切れの悪い調子で「秋の総合見直し(税制度)で検討することだからマニフェストとは関係ない」と訳の分からない答弁を繰り返して突っぱねている。多分、これで与党の得票は激減するだろう。もともと消費税は1988年の暮れ竹下総理の時代に成立し翌19894月から税率3%で施行され、その後1997年に5%に改定され現在に至っているが、消費税導入を機に、それまでは156段階くらいに小刻みに設定されていた所得税率表を4~5段階に減らしてラフな体系に変更した上に、高所得者の税率を大幅に引き下げるというトンデモナイ税制改革を行なった。これによって高所得者の所得税は大幅に下がり、低所得層の実質的な税負担が増えることになった。消費税は当初から「高所得者層と低所得者層が平等に負担することには問題が多い」という声が多かった制度である。「格差社会」はこの時に端を発する。今、経団連や日経連のトップが「年収300万円時代」を唱え、与党政権はそれに免罪符を与えようとしている。しかし、単純に消費税率を上げることは、更に「貯蓄ゼロ世帯」を加速させて「格差(所得・資産)」を広げることになる。今為すべき政策は、今の経済的繁栄の基礎を築いて来た、かっての「一億総中流社会」政策ではないだろうか。人の心に裕(ゆと)りを育むことこそ、「労わり」や「思いやり」や「優しさ」の心を芽生えさせる。現代の荒んだ世相の底に在るものは格差という新しい「差別」であるように思えてならない。

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赤城農水大臣の事務所費疑惑

政治資金規正法〖せいじしきんきせいほう〗   松岡農水大臣が6月に「ナントカ還元水」という事務所費計上問題で自殺という悲劇的責任を取ったにも拘らず、今また、赤城農水大臣が同じ事務所費計上問題を起こしている。そして今日、「ルールに則って処理しているので領収書は開示しない」と開き直って海外出張してしまった。この人もまた正常な倫理観をお持ちでない方のようである。政治にお金がかかるのは古今東西変わりなくお金に拘る気持ちは分かるが、昔は家屋敷が喪くなって跡には井戸と塀だけしか残らず、「井戸塀政治家」と言われて尊敬された政治家もいたものだが、最近は私腹を痛めないどころか肥やすばかりの政治屋稼業の輩ばかりになった。政党助成金は国会議員の門戸を広げる意味で意義があるが、不正議員の分は政党助成金から減額するくらいの罰則が必要であろう。また、今次強行成立した改正政治資金規正法では、同法に定める政治資金管理団体の5万円以上の出金には領収書添付が義務付けられた。改正前は領収書の添付が必要とされていなかったことから見れば一歩前進したかのように見える。ところが、その実は国民の目を逸らすための、如何にも政治家が思い付きそうな姑息な誤魔化し法律に過ぎない。国民の税金から支給される政党助成金を受け取る「政治資金管理団体(政治資金規正法上の政治団体)」のみ収支報告(5万円以上に領収書添付)が義務付けられているが、それ以外の「その他の政治団体」には政治資金収支報告の法的義務はない。この点が「ザル法」と言われる所以で、例えれば贔屓(ひいき:谷町)筋から御祝儀(業界・企業・個人献金等)を「ごっつぁん」と戴く角界のようなもので、使用にあたって「公私の別」の認識が薄いというのが実情だろう。従って、明白な政治資金は「政治資金団体」から支出され、曖昧な使途や表に出したくないグレー支出は政治団体から支出されることになる。「松岡議員の水道光熱費:政治資金の税務」の項でも述べたが、政治活動費を無税とするには「非課税所得の申告」制にするのが最も良い。故松岡大臣も赤城大臣も数千万あるいは億という資金が、政治活動費として費消されたのか、私的に流用されたのか、それが問題なのである。昔、議員会館の地下の廊下で国会議員相手に売店を開いていた人から聞いたことがあるが、議員の奥さんや娘さん向けに数百万以上の皮製コートや宝石類が飛ぶように売れたそうである。多分、これらは政治活動資金から出ていたものであろう。これは明らかに政治活動費ではない。そのような私的流用費は所得税法上「議員個人の課税所得」として処理されなければならない。当然、それに見合う所得税や住民税の納付義務が発生することになる。これは無論、脱税という犯罪行為になるが、現在はそれを制度的にチェックする機関さえない。従って、政治活動に費消した資金であるか否か、怪しいと見れば、国民には当然「政治活動資金である証明あるいは疎明」を要求する「知る権利」がある。倫理観の無い人間を大臣に据えちゃイカン。国が乱れるだけでなく余計な金も掛かる。


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議会制民主主義の危機、多数決

主権在民〖しゅけんざいみん〗   民主主義とは主権在民が大前提である。多数決制度は民主主義を表わしていることは間違いないが、民主主義はそれが全てではない。多数決は単なる妥協制度である。妥協の産物を得たいときには多数決は極めて至便な制度と言えるが、妥協が真理でないことは言うまでもない。むしろ真理は少数の中にあることの方が多い。真理を求めるために多数国民の代表者と少数国民の代表者が一堂に会して質疑し審議するところに議会制民主主義の本旨がある。従って、多数決は運用次第で民主主義と非民主主義の二面性を有している。こんなことを知らない代議士はいない筈だが、安倍政権になってから強行採決がやたら多く、この点を履き違えているような議会運営が目に付く。質疑審議を疎かに「数の力」のみに頼る政治手法は横暴以外の何物でもない。少数党の意見(少数国民の代表)を聞こうとせず、徒に強行採決に頼ろうとする議会運営には多数決至上主義が窺われ、議会制民主主義の危機を感じる。安倍総理、中川幹事長、中川政調会長ら政権首脳の発言を聞いていると、憲法の唱える「主権在民」主義が希薄になりつつあるように思える。国会が愚昧議員ばかりで運営されるようになると、多数決原理が絶対化され、その結果、徐々に民意から乖離し、ファッショ化する恐れがある。委員会や国会の審議での強行採決こそ、まさしく少数国民の声を聞こうとしない与党の「ファッショ」感覚以外の何物でもない。本来、行政とは弱者を基準になされるものである筈だが、少数党の意見に耳を貸さない政治姿勢は小数国民の意見を無視・抹殺する行為そのものであり、彼らに「弱者擁護の意識」は皆無に映る。目先の党利と妥協に走り、あるべき真理を求めようとしない政治屋たちにこの国の将来を担う資格があるのだろうか?参議院議員選挙の際には冷静に候補者を見極めて欲しい。

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慚愧に堪えない

慚愧〖ざんき〗   松岡大臣が自殺した後の記者会見で、安倍総理が「慙愧に堪えません」と発言した。これを聞いて「???」と思った人が多かったのではなかろうか。私も一瞬、「大臣を辞任させなかった」ことを悔いて本音が出たか、と思ったが、その後の発言を聞いていると、どうもそうではないようである。単に「残念でなりません」と言うつもりが、これじゃ簡単過ぎる、とふと思い直し「悔やんでも悔やみきれません」と強調するつもりで口から出た単語が「慚愧」となったようである。念のため広辞苑で調べてみると、「慙愧とも書く」とあり、意味は「慙愧に堪えない」という言い方のとき「恥じ入る」という意味になる。「慙愧しける」という使い方のときは「そしる(謗る:誹る)」という意味になり、「残念」という意味は無い。安倍総理はどういうつもりで「慚愧に堪えない」と言ったのだろうか?議員たるもの、言葉は正確に使って欲しいものだ。

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平成の「銃狩り」を!

銃器狩り〖じゅうきがり〗   またまた銃撃事件が愛知県で起こった。元暴力団員の事件である。アメリカでは銃事件は日常茶飯のことであるが、本来、銃器が存在しない筈のわが国でこれほど銃撃事件が発生するというのは尋常でない。1ヶ月前の417日に伊藤長崎市長が銃撃され、翌18日の夕方には和歌山県で元暴力団員が発砲事件を起こして自殺するという事件が起こった。20日には町田で暴力団同士。そして昨日17日。一ヶ月間に4件の銃発砲事件が市民社会の中で、という異常事態である。政府は18日、「法律を整備し、厳重に対処する」とまるで法律を整備すれば解決するような発表をしていたが、銃の無い社会を作る意思表示をすべきであろう。明治の廃刀令を思い浮かべたのかも知れないが、豊臣秀吉の「刀狩り」に習って「平成の銃狩りを行う」と宣言するぐらいの気迫が欲しい。5万丁とも10万丁とも言われているが、このくらいであれば「銃狩り」は今からでも決して遅くはない。

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集団的自衛権と武力行使の「永久」放棄

集団的自衛権と憲法改正   憲法第9条は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」、また2項において「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と宣言している。歴代政府はこの条文から、「個別的自衛権があることは勿論だが、国連に加盟する国家として、また日米安全保障条約上、集団的自衛権も有している。けれども、憲法上の制約によって行使できない」という見解を採って来た。しかし小泉政権や安倍政権は「今のままでは国際貢献にも限界があり、日米同盟にもヒビが入る」と主張して憲法改正を企んでいる。自民党の憲法改正の目的はこの一点にあると言ってよい。集団的自衛権問題は、日本国憲法、国連憲章、日米安全保障条約という三つの立場で解釈し実行しなければならない、という難しさはあるが、最も重要なものが日本国憲法の遵守であることは言を俟たない。その憲法下において、米軍に基地を提供し、イラクでは空輸による兵站(へいたん)活動をして同盟国米軍を援け、戦場に駐屯地を置いて貢献活動といった具合に、公明党の太田代表が懸念しているように憲法第条の解釈を「なし崩し」にジワジワと拡げて来た。これらは全て広い意味で集団的自衛権活動である。しかし、見過ごしてはならない最も重要なことは憲法第条で「永久にこれ(武力による威嚇又は武力の行使)を放棄する」と宣言している「永久に」という言葉の取り扱いである。クーデターでも起きて政治形態が変わったのであれば別だが、現政治形態の中で憲法において宣言している「永久に」という言葉を、憲法改正で簡単に取り去ってよいのだろうか?第9条及び現憲法の中心思想である「永久にこれを放棄する」という「永久」精神はみだりに変えるべきものではない。「永久」が消滅したら、60年間守り続けられて来た「永久」という表現は一体何だったのか?ということになる。憲法に「永久に」という言葉がわざわざ組み入れられた趣旨と思想をよく考えなければならない。安倍政権は、時代や政権の都合によって是としたり否としたり、憲法が如何様にも簡単に改正できるように憲法改正ハードルが低い国民投票法制度を作ろうとしている。ろくろく審議もしないで数に任せて直ちに強行採決することからも分かるように、安倍総理には独断専横的人間性が見られる。都合の悪いことは「知らしむべからず」であり、それがバレると本論をすり替えて曖昧にする癖がある。安倍総理の発言は裏をよく考えて聞かなければならない。

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何故、今、全国学力テストか?

全国学力テスト〖ぜんこくがくりょくテスト〗   43年ぶりに、小学6年生と中学3年生を対象に学力テストが実施された。一般学力テストと生活調査と称する意識調査であるが、この結果は一般には公表されないらしい。冷静に考えれば、公表されない「全国学力テスト」というのも奇怪(おか)しなものである。ところが採点と集計作業は民間企業へ委託される。生徒個人の情報が漏れれば個人情報法にも関係する重大事だが、過去の民間委託の例からすれば、いずれ洩れると認識して置いた方がよい。43年前、全国学力テストが廃止されたときの理由は「詰め込み教育」の弊害からの脱却と「ゆとり人間」の育成にあった筈だが、再開する前に「43年間の廃止」結果について文科省はその評価を国民に明らかにする責任がある筈だ。学力テストを再開すれば、その結果で教師と学校が評価されることになる。改正教育基本法に教員資格の「10年見直し」制度が盛り込まれた以上、これまで以上の「詰め込み教育」が行なわれることも間違いない。更に「生活調査」と称する意識調査は、愛国心の度合いと動機付けの点を教師と学童の両方のチェックのために利用される恐れがあり憲法が保障する諸々の「自由」面からも慎重に扱われるべき由々しき問題である。そのためにも「教育行政審査会」を作って目的と取り扱いを明確にし、運用についての管理・監視役を設ける必要があるのではないか。さもないと、文科省に「愛国心調査」や「愛国心教育指導」という名目の下に「教育」の細かい部分まで国家が管理することにもなりかねない、極めて危険な制度になる恐れを含んでいる。少年法の改正などを見ていると、安倍首相は「伸び伸びとして心豊かな子供」を育成するよりも、むしろ格差を作ることの方がお好きのようである。今必要なものは「全国人間力テスト」だと思うが、如何?

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離婚後300日以内出産児の父親

300日問題〖さんびゃくにちもんだい〗   「離婚後300日以内に生まれた子は離婚前の夫を父親と見做す」という民法規定が「離婚後の男性が父親であることを証明できるときはその男性を父親とする」と出生手続きの取り扱いが改められた。母親と生まれてくる子供のためにも適切な判断をしたと評価している。そもそも法律用語としての「見做す」とは「法律上これを同一視する」という意味で「推定」よりも強い意味を持つ。推定とは「法が合理的に推量して下す判断で、事実が異なることが証明されたたときは効果を失う」というものである。この「300日問題」は、立法時において「証明するだけの方法手段が無かった」から後々の権利関係の紛争を出来るだけ避けるために国家が「見做す(同一視する)」という強い立場に立って作られたものである。しかし、法解釈はそうであっても、所詮「見做す」は「見做す」に過ぎず、「同一」とは異にし当然「同一」に勝るものではない。法律の適正な解釈適用は、時代の変化と科学の進歩によってむしろ担保されていっており、日進月歩している現代医学において真の父親や真の母親を特定することは難しくなくなった現代においては「300日」の判断は至極当然の成り行きと言える。この問題で家庭と家族の絆の「安心」を最も熱望しているのは子供の母親である。安倍総理が法改正に反対で異を唱えていることは理解出来ない。

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国会という芝居小屋

芝居小屋〖しばいごや〗   「おふくろさん騒動」で筑豊(福岡県)の由緒ある芝居小屋、嘉穂劇場が一躍有名になったが、国会も負けず劣らずの猿芝居小屋か狐狸芝居小屋である。只今、「水道を飲まない狐狸物語」を絶賛公演中。国民を騙す狐狸の猿芝居のつもりのようだが、国民は決して騙されてはいませんぞ!しかし、明治の元勲が国会の場所を赤坂狸穴(まみあな)の近隣に選んだのは中々のご明察?そして現代の政治家も?やはり赤坂狸穴から程近い場所に「集欺院欺員宿舎」を建設中!惨議院議員宿舎候補地も近隣である。卓見なりや?政治浄化のためには、狐狸の住んでいないところへ移転するのも一手か?

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失敗から学ぶ

失敗〖しっぱい〗   世の中に、失敗も、勘違いも、思い違いもしないなどという人はいない。失敗もし、勘違いもし、思い違いもするのが人間である。失敗は知識や技術の未熟さ故に、勘違いや思い違いは情報不足や理解力不足が原因で起こる。しかし、失敗も、勘違いも、思い違いも、その人に新しい知識と情報を提供するという点では同じである。ただ、優れた人間はそれらをスピーディーにタイミング良くフォローし修正して、最後には成功に導くことが出来るが、凡人にはこれが出来ないという点だけが明らかに異なる。優れた人間は失敗しないのではなく、失敗していないように見えるだけなのである。即ち、どんな人も、失敗や勘違いや思い違いの蓄積の上に現在がある。優れた人間は失敗から何かを体得し明日の飛躍の糧とすることが出来るが、凡人は失敗という現象に囚われ過ぎて冷静さを失い明日へ飛翔することが出来ないというだけである。従って、決して失敗を恐れる人間をつくってはならない。失敗から逃げることなく、堂々と失敗に挑戦する前向きの積極的な人間を育てなければならない。そのためには、失敗を咎めたり、嘲笑したりしてはいけない。言いたくても我慢するだけの悠然さを持たねばならぬ。自然界の動物と同じで、人間も失敗を糧に成長する。

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参議院?惨議院?

参議院〖さんぎいん〗   恥知らずの「羞議院」議員に「参議院は要らない」と侮辱され、惨めな「惨議院」と「惨議院議員」と化そうとしている。参議院議員は概ね地味でパフォーマンス能力に劣る人が多く、思うように参議院の存在意義を国民に発信出来ていないのは残念。コイズミ・アベ政権において、何でも彼んでも党議拘束を懸けて国民の声を代弁代議する役目の代議士の口を封じ、自民党総裁に異論を唱えれば除名あるいは非公認という専横恐怖政治は何とかしなくてはならない。こんな状況下で、参議院が廃止されて「羞議院」だけの一院制となったら、これから先、どんな国になるか分かったものではない。国民投票法や憲法改正を控えて参議院の存在意義を国民に示せるまたと無い絶好の機会である。今国会では良識の府参議院の意地を見せてもらいたい。月の参議院議員選挙では衆議院与党のお目付け役も兼ねて野党に勝たせたい。

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ジャーナリスト宣言

ジャーナリストJournalist〗   新聞・雑誌・ラジオ・テレビなどで時事問題の報道・解説・批評などを行う記者・編集者・寄稿者の総称。国民個人個人が有する「知る権利」を代表して遂行する専門職。週刊朝日の記者が「あるある大辞典」番組の「納豆ダイエット」の嘘を見破って関西テレビ(フジテレビ系)の偽装を告発した。視聴率競争の陰で影が薄くなりつつあったジャーナリスト・スピリットが微かながらも健在であることを示して呉れやや安堵した。政治・経済の分野においても「為にする」匂いプンプンの報道が目に付いていたので遅まきながらも朝日が「ジャーナリスト宣言」を唱えていることは喜ばしい。健全なジャーナリズムの世の中に戻るよう、真摯かつ積極的な健闘を期待する。

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刺客議員

刺客〖しかく・しきゃく〗   武家政治社会の中で裏社会に存在したテロリスト。特定個人あるいは特定グループの主義主張や利益に反する相手を殺戮し抹殺するために雇われて働く殺し屋。戦後、民主化社会の中で死語化していたが、小泉政権の郵政解散で突如として落下傘刺客として甦った。その結果、刺客が衆議院議員になり、世論に代わって代議すべき代議士に化けるという不条理が堂々とまかり通った。そういう意味では、小選挙区選挙民から見れば自分たちの意見を代弁してくれるかどうかも判らない落下傘刺客に非があり、離党させられた議員が復党したことの方が理に適っている。ただ、参議院議員選挙に勝たんがために復党を認めるという安倍総理の私利私欲的発想には、政治家に必須の毅然さが全く感じられず疑念が残る。

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接待

接待〖せったい〗   接待とは、「接待している間、相手の幸福を保証すること」である。洋菓子サバランを考案したブリヤ サヴァランの名言。

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自立支援

障害者自立支援法    社民党の強い反対を無視して、自公民の賛成によって20064月に成立した。収入を稼ぐ手段が厳しく制約を受けている、いわゆる「自立し難い」障害者に、「自立支援」という名目の下に「障害者用施設の利用料の一割を負担」させようとする法律。「弱い者には更に厳しく」という最近の政治を象徴する政策で、法律の名前とは裏腹の、障害者に自立意欲を失わせかねない悪法である。そもそも、「自立支援」という言葉が良くない。

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写真と写実

写実と写真〖しゃじつとしゃしん〗   「真実」の片方の言葉を使った「写実(実を写す)」と「写真(真を写す)」という表現があるが、実も真もどちらも真実という意味であるのでよく考えれば実に紛らわしい。実とは見た目のことではなく目に見えない奥にある真実を意味する。見た目通りに忠実に再現したいのであれば写真に撮ればよい。写真は見た目の表面しか写していないのに何故か「写真」と言う。写実とは、美しいことと綺麗であることとが異なるように「実」を写すことである。小説家はペンで実を表現し、芸術家は筆で表現する。

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総理大臣?SORRY大臣?

総理大臣〖そうりだいじん〗   昔から現代まで謝る謙虚さを持ち合わせていないような総理もいたが、多くの総理大臣が失態や失言によって「謝って」来た。その様は、まるで「SORRY大臣」である。

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政調会長は整腸会長

政調会長〖せいちょうかいちょう〗   政局あるいは政党調整役。詰まり気味の党運営を滞ることなくスムーズに進める役割という意味で、整腸会長。正確には政務調査会長。造反組の復帰に際しては、安倍惣菜、中川秀直癇辞長、中川昭一整腸会長らのそれぞれの象徴的発言が性格を顕わしていて面白かった。

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選挙?選虚?

選挙制度〖せんきょせいど〗   どうも今の政治家や政治家希望者には本物がいない。そんな候補者でも選挙になると選ばなければならない、というのだからむしろ選虚」とでも言った方が適っている。従って、どうしようもない人でも選ばなければならない制度というのは選虚制度」となる。これで投票率が上がる筈はないのだが、それでも投票率が下がると、国民の意識が低いというコメンテーターや政治論家が現われる。

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三つの必要資質

i〖スリー アイ〗   元川鉄副社長のK氏が、経営者や統治者に絶対的に必要として求めた三つの資質。information 情報収集咀嚼能力,intelligence 知的能力,imagination 想像能力の三つの「i」。これに、innovation 革新能力とintegrate 統合能力を加える人もいる。情報とは元来集めるものであるが、何となく集まって来る人もいる。知力とは考える力である(閃き力brainstorm power)。具体的な絵姿を描き想像する能力。この三つの能力の上に実行力が加わることによって革新され、統合することによって飛躍発展という現象が起こる。

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資格制度に刺客制度も?

資格制度〖しかくせいど〗   資格人間には、発想が四角四面になりがちな人が多い。円く運営しなければならないことも四角に扱ってしまう。従って、四角人間や四角制度という方が適っている。小泉自民党においては、言うことを聞かない仲間には刺客を差し向けるという刺客制度が誕生した。

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サッカー

サッカー〖さっかー〗   「蹴球」。ルール違反警告のイエローカードや、悪質ルール違反には即時退場処分となるレッドカードが象徴的。一見、フェアに見えるが、とんでもない。二度まではルール違反を許しましょうという、スポーツマンシップとは程遠い興行。子供たちに誤った価値観を植え付ける恐れ、大。

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政治屋という経営者

経営者〖けいえいしゃ〗   企業経営の実態の実態を見ると、「経営の適格者」とは言えない閨営者、型営者、傾営者が非常に多い。彼らの大多数は、企業を私物化し、先祖が築いた信用を失墜させる。最近は、政界もそっくりになって来た。国民のため、国家のため、という使命感を持った政治家は減り、サラリーマン的感覚か、まるで家業の跡継ぎ感覚の「商い稼業」の政治屋ばかりになり下がった。政党も、派閥も、政治屋が閨営あるいは傾営している。知らず知らずのうちに日本と日本人を退廃させ、駄目な国にするだろう。昔は、国のためなら、民のためなら、資財を割いてでも、という「井戸塀」政治家がいたが、今は政治資金を誤魔化して私腹を太らそうと企む者が多過ぎる。国民は目を醒まさなければならない。

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守禮之邦

守禮之邦〖しゅれいのくに〗   那覇の首里城の入り口大手門、守礼門に掲げられている扁額に書かれている「守禮之邦(礼節を尊ぶ国)」は争いを好まなかった琉球人と琉球の心である。沖縄の諸悪問題の根源は、そもそも礼節を尊ばない人々が駐留しているところにある。礼節を尊ぶ心は、内地の人々の嗜(たしな)みからも失われつつある。守礼門は16世紀半ばに尚王朝時代に建てられたが、太平洋戦争で消失し、戦後13年経って1958年に復元された。

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